心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活の日々に思うことを綴ります

習慣の秘密

正精進=楽な努力?

毎日時間の記録をしているのだが、そのおかげもあり、「習慣」に対する意識が強くなっている。
経典『仏陀の証明』の中では、八正道の中の正精進の解説として「努力の習慣を身につけること」という説明がある。
習慣が身についてこそ精進ということだが、習慣的に努力するっていう言葉にたいしてかつて「苦しい」っていうイメージがあった。
最近は逆に、正精進って楽に努力することなんじゃないかと思うようになってきてる。
「楽」という言葉の響き自体は怠惰な感じもするのだが、実は全然そんなことなくて、むしろ勤勉こそ「楽」の正体なんじゃないかと最近実感している。

シャワー
歯磨き
ご飯を作ること
お化粧
特別に意識することもなく当たり前のように繰り返していることが習慣だと思うけど、意識しないってことは無意識を使っているってことになる。


過去7年ほど会社勤めをしていたが、その間僕はほぼ毎朝お弁当(しかも残り物を詰めるとかじゃなく結構きちんとしたもの)を自分で作って会社に持って行っていた。
周りの人からはよく「偉いね」だとか「意志の力が強いんですね」とか「朝強いんですね」とかいろいろ褒められもしたけど、ただ習慣的にやってただけで、自分としては何も頑張っている実感はなかった。
朝起きたら何も考えずともキッチンに立ち、卵焼きを作り始める。何品か完成していく過程でおかずの香りに脳が目覚めていく。色合いを考えたり味見をして味覚に集中したりと、いろいろやってるうちに気が付いたら眠気が覚めている。
といった感じで目覚めの手続きとして日々無意識に続けていた。
振り返って思うと、決して苦しくはなかったけど努力は努力かもしれないなと思える。
客観的にはきっと努力と認定される習慣なのだと思うが、主観的には楽々やっていたとしか認識していない。
意志の強さとかではないことは確かだ。
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現在仕事を三つ掛け持ちしていて休みは基本ない。必要な時だけ休暇を取得する形にしている。
朝は5時過ぎに家を出て、昼間4時間ほど休憩し、夕方からまた働いて夜は10時か遅いときは深夜0時過ぎに帰って来る。
ていうことを説明すると、「大変だね」とか「めちゃくちゃ頑張ってる」とか言われるけど、習慣にしてしまっているので楽々こなせている。
呼吸をするかの如く働き、手を動かしながら耳学問をする。
移動中は動画を楽しんだり、経典を紐解いたり、といった感じで、自分の時間の合間に仕事をこなしている。
友人には説明しても納得されないけど、僕は今とても楽に努力させてもらっている。

もしこれを意志力で一つ一つこなしていたら楽ではないと思う。
習慣化によって意識的にしていた努力をどんどん無意識においやっているから、苦や楽を感じるでもなく継続できているのだろう。
意志力を要したのは「このスケジュールでやっていくんだ」と覚悟を決めたときくらいだ。
「何が何でもやりきるんだ」と強く決意すると、言い訳する心がなくなり、「やらない」とか「あきらめる」といった選択肢がなくなる。
「やる」一択になると何の葛藤もないので意思は必要ない。
新しい生活習慣に慣れるまでの忍耐と体調管理のための創意工夫は必要だったが、ペースを掴んでからは気楽にやらせてもらっている。

習慣のメンテナンス

日々繰り返していることを良くしていく。高めていく。清らかなものにしていくことが大事な心がけなのだと思う。
永続的な営みに変化を加えることで、5年後10年後の未来を大きく変えることができる。
日々繰り返すことは大抵とてもささやかなことで、軽く見がちだけど、繰り返し蓄積していく効果を考えると、重要感が違ってくる。
研修や祈願とか、毎日やるわけではないインパクトのある修行に重きを置いていたけど、実はこっちの方こそ注力すべきポイントなんだなと思えるようになった。
というより、研修も祈願も習慣の中に落とし込んでいくことで魂の輝きに加えていけるものなのだと思う。

最近は研修資料を持ち歩いて日々隙間時間に振り返っている。そんなことやったことなかったし、やろうとも思っていなかったんだけど、確認したい箇所があってカバンに入れて以来、振り返るのが習慣化した。
とてもありがたい。
もしかして潜在意識で良い習慣を引き寄せているんじゃないだろうか。

最初は意識的に取り組む修行も、繰り返し継続するうちに無意識の行動に移行していく。
無意識に干渉するうちに潜在意識が活性化してきている可能性はある。
ささやかな努力を繰り返すうちに少しずつ少しずつじわじわと自分の心の深い部分に変化を促しているのかもしれない。


今後きっと心の力で大きく変わっていける。
しかも楽に。
のびのびと発展していこう。
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2.16愛と精進

気楽な精進

このごろリラックスする時間が随分増えた。
というよりリラックスしすぎなんじゃないかというくらい、頑張っていない。
肩の力を抜く生き方を学ばせてもらっているんだと思う。

以前は気持ちに余裕がなく、いつも「もっと頑張らねば」と思っていた。
テレビだったり娯楽に時間を割いたあとは罪悪感を感じていた。
今は全部前向きというか、すべてが完璧な導きだと信じきって受け止めることにしてる。
失敗に見えること、徒労にも思える経験、ダラダラ過ごした時間。
そういう時間をも感謝で受け止める。
そして、気持ちを切り替えて心の修行に集中するのだが、結構良い感じに集中できるし、悪くない感じがしてる。

その土台としての凡事徹底生活が保たれているかのチェックだけしていて、あとは結構自由に任せようとしている。
これまでも傾向性で気張っちゃうところもあるんだけど、緩急のバランスの取り方を今改めようとしているのかもしれない。

朝晩の正心法語全編読誦
朝の教学
環境整備
健康管理
以上を凡事徹底セットとして、崩さないでいればとりあえず後は自由。
プラスアルファで何かしら良い習慣を取り入れてみるとか、こまごまと小さな創意工夫を楽しんでいる。

もうちょっと頑張らなきゃいけないんじゃないかと思ったりもするんだけど、それは傾向性として掴んでしまっている心の癖なんだと思う。

義務感
強迫観念
勘違いしたストイシズム
自己陶酔型の形式的努力

正しくありたいという一心で努力していたのだと思うけど、どこかうまくいかないところがあった。
自分に厳しくあろうとする表面意識に対して本心はいつも反発していて、努力が長続きしなかった。
理想どおりに努力できないとき、自分を責めることで自分に対する厳しさを持っているつもりになっていたけど、実際には自尊心や自己信頼を自分で傷つけていただけだったように思える。

悪い自分を罰し、強制するかのような息苦しさ。
いつまでたっても魂は解放されず、不自由。

そんな状態だから、頑張るほどにストレスがたまり、心がこわばり、満たされず、バランスを崩していく。
表面意識ではそれが正しいと思ってやっているから修正が効かず、潜在意識へ不調和が蓄積されていく。
やがて蓄積しきれなくなった不調和が表層にあふれ出し、生活が乱れ始める。
お金の使い方、時間の使い方、他人に対する裁き心など、自分や他人に対する破壊作用が働く。

そういう悪い循環がこれまでの実態だったのだと思う。
マイナスだけではなく、それなりに経験から学び続けてきた部分もあったので、このやり方をなかなか否定しきることができなかったけど、否定しよう。
このやりかたでは幸せになれなかったじゃないか。

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凡事徹底+リラックス

余白の創造性、生産性を今実感しつつある。
ストレスが生じにくいサイクルなので、生活バランスが整いやすいというか、とりあえず本心が納得してくれてる感じがある。
「こんなの違う」っていう反発心が潜在意識に蓄積して、決壊して、崩壊っていうサイクルからは外れた。
おかげさまでこれまで破壊と修復に費やしていた時間がなくなったことに気づく。

この流れなら、自尊心や自己信頼を育んでいけると思う。
たぶんもっと自分を好きになれる。
他の人のことももっと好きになっていける気がする。

まずは自分自身を大切に思おう。
一歩下がって自分を見て、良いところを認めて好きになってあげていい気がする。

個人としてやれる最初の社会貢献として、世界の一部分としての自分を愛し、許し、癒し、救おうと思う。
破壊をやめて創造に舵を切ろう。
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2.16優しさ

もっと優しくなれるはずだ。

子供の頃はもっとすごく優しい人だった。
いつからか人間不信になったのか、当時の優しさは今影に潜んでしまっている。

今でも「優しい」と言われることは多々ある。
けどそれはめったに怒らないとか穏やかという意味での消極的な優しさだと思う。

怒りっぽいところもある。
周りを見ずにもたもたしてる人に遭遇したときとか、道を妨げるような行動をしてる人とか見ると、イライラのスイッチが入ってしまう。
そして、そんな小さい自分に少しへこむ。

最近よく子供の頃のことを思い出す。
あの頃はもっと積極的というか衝動的に人に対して優しく接していた。
クラスの中で浮いてしまっている子に声をかけて、孤独から救っていた。
それによって自分が浮くことに対して恐れはなかった。

多分教師以上に子供に気を配っていたんじゃないだろうか。
まるで聖者のようだ。

昔に帰りたいなんてこれまで思ったことなかったけど、優しさだけはあの頃に戻そうと最近思うようになった。

優しさこそ自分の中核なのだと思う。
呼び覚まそう。


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2.07瞑想

日々通り過ぎる沢山の人は、すべて一人一人本当に固有の人生があって、自分のように複雑な思考をし、悩み、喜び、友人や家族、様々な人間関係の中で、様々なドラマを展開しているのだろうかと、疑いたくなることがある。
何十億という人が地球上にいて、一人ひとり、特別なオリジナルの人生を歩んでいる。
自分一人ですらこんなにも緻密で入り組んでいるっていうのに、こうした思考を可能とし、記憶を再生する生命が数限りなく存在する。
それにも関わらず、僕は一人としてその複雑で繊細な意識の見る世界を理解できない。
知ることができるとしたら、それは人間として同質の感情や願い、心の移り変わりの一部分に過ぎないだろう。
それすらも知ろうとしたことがこれまでどれだけあっただろうか。
他人の存在をまるでテレビ画面に映り込むロボットか何かのように、あるいは必要のない雑音であるかのように、つまらないものとして、気にも止めずに切り捨てている。
それどころか、積極的に自分の心の中から排除しようとしてきた。
できる限り気に止めることなく過ごすことが、心穏やかに生きる為には、必要なことなのだと、思っているのだ。
それで良いのかもしれないが、自分は一体誰を幸せにしたいと思っているかという、大切な事を忘れているんじゃないだろうか。
目の前に現れる血の通った人間一人ひとりも、幸せにしたいと本当に思っている内の一人であるならば、こんなにも冷たい目で、心で、彼らを見ることなんてできないんじゃないだろうか。
どこか心の片隅でも良い、いたわりや、優しい気持ちでその存在を受け止め、関心を寄せることができたんじゃないだろうか。
内省の時を長く続けているうちに利己主義者になってしまっているのではないか。
今まで気に止めようと思いもしなかった一人ひとりの人生に、思いを馳せる。
今、自分の目の前に現れるこのときまで、一体どんな歩みがあったのだろう。
どんな人と出会い、どんな嬉しいことや辛いことを経験し、どんな人を愛し、どんな人に愛されて生きてきたのだろう。
それぞれが全く違う特別の出会いと別れを繰り返し、生きてきて、今、共にここにいる。
この広大な宇宙の中の、同じ一つの地球の上で、息をしている。
この瞬間のすべての命に、思いを馳せよう。

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2.06夢

大仁田厚の内部で何かを祈る夢
僕は視覚的に表現すると直径6センチ程度のエネルギーの玉になっていた。
何度も彼にエネルギーを与えるような祈りだった。
彼は祈りを必要としているのだろう。



暗闇をひた走る夢
午後の曇り空の下、大きな道路を自転車で走っている。
どうやら東に来すぎた様子で、マップを確認すると、目的地(実家のあるエリア)まで20キロ以上離れているようだ。
スピードを出してとにかく西へ急ぐうちに、大通りから一転、開発工事前の野山に入る。
日が沈み、道なき道、獣道のような安定感のない土の上を走っている。
崖に近い下り坂を急降下し、遠くに道を走る車の明かりが見える真っ暗な平野に落ち着いたところで目が覚めた。
随分遠い道のりの途中にいるようだ。

2.2(土)一線を越えろ

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ドラマにはまっている。
シーズン5まである海外ドラマのシーズン3まできた。

常識を遥かに超えた科学事件の捜査チーム「FRINGE(フリンジ)」の主人公たちが、徐々に明らかにされていく事件の影にある”平行世界(パラレルワールド)”と運命を重ね合わせながら困難に立ち向かっていく超科学サスペンス。
心霊ものや宇宙ものとは違った切り口で、自分自身のこの世的常識感覚に「揺らぎ」を与えられる内容になっている。

ストーリーを力強く脈動させる異常な事件の数々に強烈にひきつけられるのだが、そのパワフルな設定に負けないだけの魅力的なキャラクターたちが、ときには知恵で、ときには不屈の闘志でもって突破不可能に思える困難を押しのけながら、観客をより大きな謎と困難の物語に牽引していく。

この面白さはどこまで高まっていくのだろうか。
面白すぎて今日はついに全身がしびれた。
ここまではまるともう終わって欲しくない。


平行世界を題材にした世界観や、常識にとらわれないフリンジチームのやや非常識なやりとりと発想を目にしていると、常識と言うものが如何に狭く閉ざされた枠の中にあるのかを考えさせられる。
そして、このぶっ飛んだ感じがとても自由で心地よい。
彼らは常識にとらわれようとしない「思考の自由」がいかに尊いかを、言葉ではなくストーリーを通して見事に表現している。

もし主人公たちが常識的な思考パターンの持ち主であったなら、困難な状況や絶体絶命のピンチ、解読不能に思える謎を前にして、その壁を突破していくことは不可能だったろう。
たいていの人間はその自尊心ゆえに、恥をかくことを恐れ、失敗のリスクに対して果敢に挑んでいくことができないものだ。
しかし、主人公たちは我々観客の期待を決して裏切ることなく、人間に本来備わっている勇敢さを、一つ一つの決断によって示し続けてくれる。
それは観客自身にも備わっている善性を力強く肯定してくれるエールのようにも思える。
「どんな困難な状況にあったとしても、諦めず、勇気を持って前進することで必ず道を開くことができる。」
そう言われているような気持ちになる。

神秘や未知を否定することなく、その未開の地にこそ真実があると考える姿勢なくして、未来の進歩は許されない。
僕自身、いつのまにか既知の世界の中で停滞しているようなところはあると思う。
他人と比べたら常識から外れた世界観を持って生きていることは確かだが、自分自身の世界観のアウトラインを広げることが、日々にどれだけできているかは疑問だ。

フリンジのストーリーの中で、キーパーソンとなる科学者は遺言で『一線を越えろ』という一言を親友であるフリンジチームの科学者に残す。
遺言を受け取った科学者の性格はとても奇抜で自由な発想の持ち主であるのだが、彼であっても実は広大な自分の既知の世界の中に閉じこもっているようにも見える部分がある。
僕自身、常識にとらわれない人間になった気でいるが、実はある程度広い世界に出て満足してしまっている可能性はある。
本当は開くことのできる扉がまだまだたくさんあるのに、相対的な広さの中で出来上がってしまっている。

己の分限を知るということも大事かとは思うが、その分限は成長していくものであり、早々に限界値に達するものではない。
成長相応に拡大した越えるべき一線を正しく見、勇気をもって越えていかなければ、精進は完成しない。
「謙虚」と言う言葉を停滞の隠れ蓑にして、無意識に勇気を要する前進を避けているのではないか。

そもそも僕は分限を考慮する立場に立つことすらできていない気がする。
そういうことはもう少し実のある仕事をしてから言えって感じだよな。
俺レベルで分限を越えたところでたかが知れている。

自分の中に常にある一線を越えていく気概を確かめよう。
勇敢な主人公たちが紡ぐ物語に大いに感化されようじゃないか。

1.26(土)習慣の母体

新生する習慣

新しい自分を創るために古い自分を棄てる。
無意識にそういう事をしているときがある。
今まで続けていた習慣が途切れるとき、ただ単に怠慢になっているのではなく、実はそれが創造的破壊であることがある。
自分の意思では抗うことのできない流れによって、霊的な導きを得ることもある。
僕の場合病変によってそれが始まることが度々ある。
自己変革に精を出した後の風邪はだいたいそれだ。
身体の自由が効かない状態に追いやって、それまで続けていたあらゆる習慣をいったん止めさせる。
がんばろうとする傾向がなくなるまで。
新しいものを生み出すために、一回その殻を脱ぎ捨てる必要があるのだ。

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ブログを通して自分の考えていることを振り返り、思索することを習慣として根付かせていたが、その習慣が歩調を変えている。
いつもそうだが、習慣の変化は意図せずして訪れる。
いつの間にか軌道修正が入り始め、意識の向きが切り替えられていく。
気づけば10日以上ブログを放置していた。
この間いくつか新しい習慣が産声を上げていた。

第一子は時間の記録だった。
これは二年前、数ヶ月の間続けていたものの再開になる。
一日を通してどの時間にどんなことに時間を費やしていたかをざっくり振り返られるように記録をする。
データを確認したら2017年1月28日から8月27日まで続いていた。
1月28日に銀座で受講した連続セミナーで出された宿題としてやり始め、面白かったのでしばらく続けていた。
なつかしい。

出題元はピーター・ドラッカーの「汝の時間を知れ」ってやつだったと思う。

曰く、成果を出す人間は仕事から始めるのではなく、時間から始める。
計画を立てる前にまず、自分の一日の時間の使い方を振り返り、何が起きているかを知る。
すると自ずとやるべきことが見えてくる。
無駄な時間を削り、大切な時間をまとめる。

そんな感じの趣旨だったと思う。


再開してもう4週目になるし、習慣としてしっかり根付いたようだ。
再開のきっかけはあまり覚えていない。
ブログ記事を書くときに自分の記憶をたどる手助けとして役立てようとしたのか、「なんとなく」の再開だったのだが、これは霊指導だったのだと理解している。

信仰生活はささやかなことの繰り返しであることがほとんどで、朝夕のお祈りであったり、すきま時間での教学であったりと、日常生活に溶け込んでいる。
それをいちいち振り返ってやったかやらなかったかを確認するようなことはない。
やって当たり前のことだと思っているし、やれないときがあってもそれは仕方のないことというくらいにしか思わない。(人それぞれだと思うが、僕はそうだ)

だが、「記録」という毎日確認できるような形があると、感じ方が変わってくる。


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こんな感じで信仰に関わることや、印象に残ったこと、反省すべきことなど、ぱっと見で振り返りやすいように色分けしている。


例えば、ささやかなお祈りであっても毎日繰り返すことで、記録上に「お祈り」の色が増えていく。
一日にしてみれば小さなことだが、毎日の積み重ねなので、一週間分が貯まるとその時間帯に大きなまとまりが出来て、それなりに嬉しい気持ちになる。
逆にできない日があると、シート上に空白ができ、とてもさみしくなる。

ただ記録しているだけなのだが、毎日目を通すうちに無意識レベルで良い色は増やして、悪い色は減らしたくなる。
そして、毎日やるべきことは規則性を設けて同じ時間帯に大きな色のまとまりを作りたくなる。
つまり、良き習慣を作りたくなってくるのだ。

いくつか生まれた新しい習慣の一つ目として、この「時間の記録」があったのだが、ある意味これ自体が母体として、善き習慣を生み出す装置になっている。

記録を続けるうちに分かってくるのだが、毎日やらないにしても、ぽつぽつとまばらに良い行いの色が点在していたりする。
これは規則性を与えることで習慣化できる善行だ。
或いは、必ず一定の空白ができる時間帯があることに気づいたりする。
これは、善行が定着していないだけで、すでに規則性があり、中身を統一することですぐに習慣を生み出せるスポットだ。
なんてこと考えてやっていたわけではないのだが、後付けで説明するとそういう感覚で新しい習慣を創造していたことになる。

習慣の成長

生み出された習慣はお祈りの時間と場所や、教学の時間と場所、というようなものが主なのだが、一定の時間と場所を繰り返し使えるようになると、今度はその場で生まれた習慣が成長するようだ。
繰り返されることによる「安定感」が良い土壌を育み、そのうえで営まれる習慣が一つの磁石となって波長の合うものを引き寄せ、習慣の中に取り込み、バージョンアップをする。

具体例を一つあげると、毎週一度の初転法輪記念館で「誓願」する習慣があるのだが、その習慣が今年に入ってから成長した。
誓願前の時間で一週間を振り返る時間をとっていたのだが、その時間を使って『青銅の法』公案研修の公案を、週に一つずつ、じっくり参究するっていう組み合わせができ、定着してしまった。
べつに「習慣化しよう」っていう意図はなく、ちょっと振り返りたいなと思って研修資料を持ち歩いていたのがきっかけなのだが、誓願の習慣そのものが磁力を強く放っていたようで、その中に組み込まれる形で習慣化してしまった。

というようなことがちょいちょい自然に起きていて、結構面白いことになっている。

ドラッカーは「汝の時間を知れ」と言葉を残したのかもしれないが、さらに踏み込んで「汝の習慣を知れ」という課題にいつの間にか取り組んでいる。
マーフィー理論も含めて習慣の力、習慣の創造性を探求する価値はありそうだ。
なんてったって机上論ではなく、自分自身の日々のモニタリングによってその力を試せるのだから面白い。

マーフィーは霊言の中で習慣と心の力の関係について触れていた。
それがどういう意味なのかは理解できていないが、自分自身で実践と探求をしていく中で何か掴めると思っている。
決してこれがメインの取り組みになるわけではないが、いろいろ行動していくバックグラウンドでうっすらと研究したいテーマである。

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