心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活の日々に思うことを綴ります

12.12(水) 一日を創る心

年末年始の休みを確保し、帰省の目処がたった。
明日(13日)一日をはさんで金曜の夜には四国と名古屋へ旅立つ。
どんどん過ぎ去っていく一日一日を、もっとじっくりかみしめたいという気持ちがある。

計り知れないほどの愛が込められた尊い一日を与えられながら、自分は十分に感謝しきれていないんじゃないか。
そんな感覚で日々を振り返っている。
ある意味執着なのかもしれない。

f:id:ssktmnr:20181213055217j:plain

もっといただいている一日一日の時間を生かせるようになりたい。
「こんな一日にしたい。」っていう理想の密度を実現するには、あれこれ考えがちな今の心の使い方では余白が足りていない。
何が大で何が小か、何が必要で何が不要なのかを瞬時に見分け、無駄を排し余白を生み出す、心の仕事能力が必要だ。
それは、現代的悟りの力というふうにも言われているものだと思う。
この世とあの世を貫く永遠の真理に基づくその認識は、この世においては非効率であったり、常識や損得勘定に適合しないような判断を伴うものであったりもする。
究極自らの生死をも度外視できるほど強く、揺らぐことがない真実を掴む智慧が、迷わない速さを生む。
それが「永遠の一瞬を生きる」ということなのかもしれない。
本当に大切な霊的時間を生きていくうちに、時間の中から迷いが排除されていき、同時に、迷いの原因となる無駄なものが寄り付かなくなってくるだろう。
そこに残るクリアな余白が創造性に転化するはずだ。
今はまだまだ本来の生き方ができていない。
この一年を通して、もっと目に見える結果を残したいと思っていたのだが、そのようにはならなかった。
それは悔やまれることではあるけれど、結果にいたる前の「原因」部分である心をきちんと磨くことは、本当に大事なことであったし、むしろそれこそが「全て」と言っても良い。
この世に生きる人間として、この世に残る実績をどうしても先に求めたくなる。
ブログ一つとっても、「記事を書き上げたい」という気持ちだけが前面に出てきて、「まずはそれを生み出す心を調えよう」という意識になかなか至っていない。
この思考の順序を正すことが今の自分にとっての一番の課題だ。
かといって、心の準備ができるまで何も動かないのではなく、むしろ前のめりに行動するなかで現れて来る結果を通して、心が正されているかを真に採点できるだろう。真剣勝負の中で技を洗練させていく姿勢を大事にしたい。

何もせずに波風を立たせずにいることで「平静心」を楽しむのも、心の世界の住人としては良いかも知れないが、心の世界にとどまらず、この世に善なる影響を与えられるような「創造性のある平静心」「利他愛他のための禅定力」が今後自分が求めるべきテーマとなっていくだろう。


忙しく駆け抜けた一年が収束し、徐々に静かな時間が近づいてきている。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村

12.11(火)エル・カンターレ祭を体験して

f:id:ssktmnr:20181212005112j:plain


開演前 

ウェルカムプログラムが始まったあたりから、僕は涙を流していた。
これは自分の願いなのだろうか。
浮かんでくる思いがあった。
それは、会場に集まっているたくさんの信者のみなさんを目にしていたからこそ、見ることができたビジョンでもあったのだと思う。
主を愛し、信じて、教団を支え続けている信者のみなさんが、この信仰を持ち続け、主を愛し続け、教団を支えてきて、本当に良かったと、心の底から思えるような未来をお見せしたい。
教団が世界に燦然と輝く栄光の瞬間を、教団を支え、大きくしてくださった一人一人にお見せしたい。
見返りも求めずに、ただただ純粋に主を愛し、つき従ってきた誰もが、自分自身が喜びを得ることなど考えもせずに、主に尽くしてくださっている。
だからこそ、どうしてもその従順な心に、信仰を守り抜いてくれた勇敢な心に、報いをもたらしたい。
黄金の栄冠を奉げさせていただきたい。
そんな気持ちがどうしても湧いてきて止まず、涙が流れていた。
これは自分の願いではあるが、その願いは主から流れてきているものなんじゃないかと思った。


ウェルカムプログラムが終わり、開演。
法話が始まった。
法話のなかで先生は、教団を支え続けてくれた日本の信者に向けての感謝の気持ちを何度も口にしていたと思う。
マスコミが100社(人?)以上招待されていて大変ありがたいのですが、と前置きしたうえで、信者向けの説法をし続けてくださっていた。

帰り際に経典「不信仰の家族にはどう対処すべきか」を拝受した。

その後青年部の数人と久しぶりに顔を合わせ少しの間歓談。
支部にたまに顔を出すときも同じ思いが出てくるのだが、主を純粋に愛してくださっているサンガと触れ合うと、とても愛おしいような気持が湧き上がってくる。
なんとも言えない嬉しさで幸せになれるのだ。


電車の中で頂いた経典のまえがきと、「霊言を終えて」と、あとがきだけ先に見たのだが、気持ちが少し暗くなるような、悲しみを感じた。


そこで理解した。


ああ。
主は深く悲しまれていたのだ。


不信仰に蝕まれる一人の弟子に導きを与えられないことを。
指し示した月を見せてやれないことを。

そして今日、今まで長い間信仰を守り抜いてくれた愛しい弟子たちの、結集した従順な思いに触れ、悲しみを越え、信仰者達に向けて法をお説きくださった。
愛をお与えくださった。


本当にありがたい。





僕は思う。

宏洋さんの問題は、教団内に起こってるトラブルだとか、スキャンダルだとかいうような話では決してなく、『信仰の法』の年と、『青銅の法』の年にまたがって必然的に現れている教えなのだと。
これをただ主の悲しみとして終わらせることを断じて許してはいけない。
この一書もまた、主が指し示してくださった月の一面であろう。
この悲しみに触れた一人がここから深く真理を学び、月の光を垣間見ることがせめてできてこそ、悲しみを悲しみで終わらせずに済んだと言えるんじゃないだろうか。

主が大きな痛みと共に生み出してくださってるこの教えを、『信仰』というものをより深く掴み、守り抜いていく力とし、より多くの喜びの果実を実らせる種としたい。

不滅の信仰を掴み、真理に生きることができる人は本当に尊い
主の光を受けて輝くサンガとして、その誇りと自信を胸に、信仰者の気高さが如何なるものであるかを、何がなんでも世に示していきたい。
なにがあろうとも主エル・カンターレへの信仰を高く掲げ続けよう。
やがて時代が下って幸福の科学世界宗教となったとして、その時になってから不動の信仰を学ぶことが果たしてできるだろうか。
信仰を否定する勢力がある今だからこそ、自らの信仰を筋金入りのものにしていくチャンスなのだ。


今だからこそ深く学びを得られる教えを、今受け止め、深く深く学んでおこう。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村

11月 記事一覧

記事の一覧を各月ごとにまとめることにした。
毎日そこそこの長文で一つ一つを開いていくのも面倒だし、自分自身の勉強のために時折振返る必要がるし、自分の思考がどういう霊流のなかにあるのかを確認するうえでもまとめがあったほうがよかろう。
記事と記事の中身をある程度把握するための抜粋した文章を一覧にしておく。
新月の一覧には日々最新の記事が一覧に追加されるようにしとこうと思う。

11月

f:id:ssktmnr:20181210205418j:plain
11.1(木) 意識のスイッチ
自分にできることをやろうとしない。
求められている行動、能力、意識に自分が合わせていこうと思う。

11.2(金) 英雄国家
日本は東洋の守り神 それを忘れちゃならない
守り神としての使命がある。
守らなくてはいけないたくさんの人たちが、日本を待っている。

11.3(土) 無敵の愛
条件が万全に整っていないときの方が創意工夫や新しい発見といった成長が見込める。

今与えられている一つ一つすべてが恵み。
昨日でもなく、明日でもなく、他の誰でもない「今の自分」への贈り物。
今一番必要なことが、最高のタイミングで、最高の形で、最大なる者から与られている。

たとえ自分に何が与えられているか分からなかったとしても、信じることで感謝できる。
何が与えられているか分からなかったからこそ、「信じる」という行為が可能となったことに気づく。
すべては希望の未来に通じていることを信じて、感謝したなら、幸福を感じることができる。

幸福はいつのときも、今ここにある。求める必要はない。

雌伏の時代にこそ仏の愛を感じ、幸福を見出すことができる

11.4(日) 静けさを待つ
大事な判断は静かな心をつくってからが良い。

11.5(月) 天使の幸せ
父なる主と、子なるエゴと、精霊なる天使の涙が三位一体となったとき、真実の光が悲しみの底をぶち破って溢れ出す。
邪悪なるものは退き天使は翼を広げる。

11.6(火) 【考案】ロッキー復活法
要は不屈の闘志を魂で浴びるのだ。
Rocky 1,2,3,4 y 6 Training (Full HD) - YouTube

11.7(水) 魂の教育
維新の志士達の原動力は、使命感を魂に宿すような学習だったはずだ。
侍の精神を高潔に研ぎ澄ます使命感の教育。
保身、妥協、言い訳の人生、他人の顔色を伺うような生き方を利口とせず、潔く、正直に、勇敢に、さわやかに、生き抜こうじゃないか。

11.8(木) 我願う 故に我あり
自分の実生活に結び付けて教えを実感するには想像力がいる。
その想像の手助けができれば、もっと教えのすばらしさが伝わるはずだ。
光の父と光の子たちをつなぐ道をひらきたい。
それが肉体を失おうとも滅びることのない僕の願いだ。

11.9(金) 経典との対話『天照大神の神示』
誇りも自信もなく、生活の安泰だけを求めるような人生を幸福とする間違いを否定もせず、卑しい文化を興隆させることに何の価値があるというのか。
精神性の高みを伴った繁栄を正しき信仰に基づいて実現するための政を目指さずして、お金万能の世に恋々とするような国が、民族が、今作られようとしていることを穢れと呼ばずしてなんと呼ぼうか。
「地上的繁栄」という結果によって人間の心を振り回すような現代の在り方からは、他者に対する愛の心や神への奉仕の精神が生まれることは無い。

自らを高めるために信仰があるのではない。
信ずる神を偉大ならしめ、愛する人々を幸福にするために、信仰を通して己の心を美しく透明にしていくのだ。
数多くの恵みへの感謝を忘れ、自分たちのみの保身に尽くそうとするものは、個人であれ、組織であれ、国家であれ、例外なく滅びへの道を歩んでゆくだろう。

11.10(土) 経典との対話『吉田松陰「現代の教育論・人材論」を語る』
あなたが天より見つめられ、問われているのは、口先の饒舌さや演出の完成度などではなく、光である。
光は仏の命。
仏の命である真実の光を、目の前の一人の心に吹き込むことが、愛の本質なのだ。
愛ありてこそ光は姿形を変え、その一人の心にまで行き渡る。
一つの光は仏陀の教えとして千変万化し、一切の衆生めがけて広がってゆく。

方法論ではなく、その選択の中に「原点なる心」が嘘偽りなく宿されていたからこそ、死を通して開放された松陰の精神は爆発的なエネルギーとなって日本中を揺るがし、若者の心に仏の命である真実の光を吹き込むことができたのだ。
それが日本を想う松陰の”愛”であり、未来を託した若者たちへの最後の”教育”であったのではないだろうか。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村



11.11(日) 経典との対話『幸福の科学の基本教義とは何か』
「もう難しく考えるのはやめようぜ。」
そんな声が聞こえる。
思うままに生きれば良いだけなのだ。

11.12(月) 経典との対話『ハマトンの霊言 現代に知的生活は成り立つか』
学問というものは、自分自身の考える力の開発を通した「内的幸福の発見」に満ちたものであり、知的に獲得したものを他の多くの人の喜びに還元していける「外的幸福の発見」へと発展していく「幸福の科学」とも言えるものなんじゃないだろうか。

11.13(火) 下積み時代
高潔な精神を今この場所で生きる自分に宿すことができている。
だから、形として見える立場がどう変わろうが、実は関係のないことで、
雨の日も、晴れの日も、変わることのない自分を今、見つけているのだ。

11.14(水) 靖国神社「遊就館」拝観
日本が領土的野心に基づいて侵略戦争をしていたとしたら、戦死者に対してこんな神聖で手厚い宗教儀式を施すなんてことは、まずあり得なかっただろう。
悲惨な戦いの中で多くの命が粗末に扱われたかのような印象があったし、「戦争だし、戦死者がたくさん出てしまうのは仕方のないこと」と変に達観してしまっていたけど、全然そんなことはなく、日本という国は日本国民を本当に大切にしていたんだという感覚が伝わってきて、感極まって涙がこみあげて来た。
この優れた精神性は実際のところ、どれほどの高みだったのか、客観的な評価をはっきりさせたい。おそらく人類史上断トツの高みであったのではないだろうか。
世界を率いるリーダー国としての資質は世界一のものだったはずだ。

11.15(木) 始まりの地


11.22(木) 思いついたままの創作
それぞれの心の中を表に出すことを通して、互いを賛美し、違いを祝福し合い、一人きりでは得られない幸福の輝きを作り上げる。

11.16(金) 松陰の言霊
御政道を正そうとする者は、誠意をもって事物に相対さねばならない。
自らの心が曲がっていたら、その鏡に世界の正しい姿は映らない。
自らの鏡がゆがんでいたら、弟子たちもまた、ゆがんだ像を見るであろう。

われらは、この世における命など、こんなもの、毫毛ほどの重さにも感じてはいないのだ。
永遠の生命をつかんでいる者にとって、この世は一瞬である。
この一瞬のなかにおいて、このわずかな限られた人生において、世を照らす光となることは、いかほど難しいか。
それをあなたがたも自覚せねばならんであろう。

11.17(土) 集中から解放へ
無意識の習慣に関わる部分が心に与える影響は大きいと思う。
ちょっとした事の積み重ねではあるが、その一つ一つは必ず少しずつ心に何らかの影響を及ぼしている。

集中は集中、開放は開放。メリハリを自在につけて心を豊かに

11.18(日) 映画ビフォーアフター
振り返る作業って本当に大切な収穫作業なのだ
一日は何も意識しなければただただ通り過ぎ、どんどん忘却されていく。ほんの一週間前ですら思い出すことは至難の技で、振り返ろうとしない限り、無かったことにはならないまでも、感謝すべきことに気づけないことは確実だ。
経験は蓄積され、一日一日の中で得た新しい教訓は、その未来において正しい判断をもたらすなどして生かされるとは思うが、その教訓をもたらした「存在」については、無意識のうちに感謝できることなど絶対にない。
修行って大変なイメージあるけど、感謝の機会を掴んで幸せになる営みなんだと思えば、それはその通りだし、これが習慣として本当に根付いていけば、もっと心からの恩返しの人生を生きることが出来るのだと思う。

11.19(月) 愛の錬金術
自己評価をそのときの気分だけで低くするのは慎もう。転んだから掴める藁があるかもしれない。
自分の至らなさに情けなくなり、苦しむ人も数多くいるだろうけれど、「それが見えているということ自体、光をいただいている証拠なのだ」という考え方もある。
光ある中を歩む者は、その明るさゆえに自己の闇を見つけていることがある。

不完全な自分をむしろもっと肯定的に、貪欲に見つけて、受け止めて、許してあげるほどに、他人に対する形式的ではない”確かな”優しさを取り戻していけるんじゃないだろうか。

反省って自己完結するものだと思ってたけど、自他が一体であるならその影響は必ず他人に及んでいく。
八正道だなんだと自分のことばかり考えてたけど、他人への許しとセットで考えれば、心の浄化と同時に愛の発展をできるんじゃないだろうか。

自分が目を背けようとしていた己心の魔、短所や弱点はすべて、愛に変わることができる。それは、地獄領域の縮小と同時に天国領域の拡大を意味する。

不調で何も出てこないと思ってたけど、反省を入れれば光に変えていけるもんなんだな。

11.20(火) 酒
禁酒スタート当時、これは霊障なのだと断定して、自分に憑依するものに対する説得を試みたのだった。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村



11.21(水) 表現者の愛
見えない心の中にある自分独自の純粋な部分、誰にも穢すことのできない宝物を取り出して、自分の表現で世界に放つ。
これってとても愛のある行為だ。

心のままに生きる素晴らしさを見るだけで、人は胸に希望を抱くことができる。
そこにおさえつけていた本当の光り輝く自分が現れることで、世界を明るくすることが誰にでもできる。
すべての人は仏の子で、心の中に仏の光のかけらが宿されているから。

信仰生活を通して、心を浄化して綺麗にしたのなら、その心を遠慮なく外に向けて解放しなくてはならない
自分一人の小さな自己満足で終わるのではなく、世界を照らす希望の光として、自分自身の光を転じていくような活動をしたい。

11.22(木) 世を照らすために
正しい道を知り、徐々に小さくなっていく欲心とともに、暴れ馬は落ち着きを取り戻していく。
「もう暴れてはならない」と御者は馬の足に鎖をつなぎ、馬小屋に閉じ込めてしまった。

11.23(金) 伝道発願
真理は心の中にある。
心よ
無限に開け

11.24(土)繁栄を退ける考え方


11.26(金)真理フリーターという生き方
自分で自分の受け皿を自由に作れる人生は、やってみるととても楽しいし、納得が出来る。
他にないオリジナルをたくさん生み出すことが、自分にとっての繁栄なのだと思う。
たくさんの実りを世に広げ、豊かな世界をつくる一因でありたい。


11.26(月)インドラの旅
苦しいときや悲しいときもあるだろう。
また、順風満帆に思える喜びのときもあるだろう。
そういう時は意識を強くひきつけられるもので、目の前のその現実が、自分のすべてであるように感じられる。
しかし、やがてすべては夢幻のように消え、中心の心の一部として統合されていく。
今という現実も広大な投網の一部で一つのビジョンを体験している仮の自我であり、投網を投げた主体によってやがては収穫されていくのだろう。

11.27(火) つぼみを慈しむ心
自分自身も含めどのような相手であっても、仏の子であることを信じ、その仏性が目覚め、輝きを放つときを期待しながら生きられる毎日は、幸福であると思う。
その心は魂の親である仏の心に限りなく近い愛の心なんじゃないだろうか。

彼らが太陽の光を浴びて開花していくのと同様に、僕たちもまた霊太陽の光を浴びながら、自らの仏性を開花させていこうとしている存在なのではないだろうか。
その秘められた未来に対して、前向きな想像力を働かせるだけでも、それは充分「与える愛」と言いえるだろう。


11.28(水) すべては成長の過程にある
選んだ道の先に何があるかは自分の自由になることではないけれど、その時間の中で、何を学ばせていただいていたのかを、振り返るかどうかは100パーセント自分の自由だ。

すべては成長の過程なのだという気持ちで生きて、日々に教訓を探し求めていると、どのような苦難に見舞われようとも、その原因となった過去が悔いになることはない。
もし悔いることがあるとしたら、それだけの学びを与えられながら、成長を許された自分を世の中に役立たせることないまま人生を終えることだと思う。

11.29(木)運命と聖なる磁力
雲の上は静かで広い。
地上がどれだけさわがしかろうとも、静かで広大だ。

人との出会いであったり、言葉との出会いであったり、信仰心との出会いであったり、様々だが、何らかの強力な感化を得て、それを磁石化して運命を引き寄せている。

11.30(金)奇跡の核
感謝というのは恩恵が与えられたら受動的にするものではなく、能動的に発見していける努力目標なのだ。
運が良ければ頂けるのではない。
仏の御加護は日々必ず与えられている。
その恩寵を信じ、無償の愛を信じ、うやうやしく祈ることで見つけることができる。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村

11.30(金)奇跡の核

自分の身に奇跡と呼ばれるような現象が及ぶことはたびたびある。
この日は少し違っていて、他人の奇跡の手助けをする、珍しい経験をしていた。
奇跡についての新しい考え方が得られるかもしれないので、少し振返ってみる。
f:id:ssktmnr:20181210200407j:plain


朝、布団の中で気持ち良く横になっていた。
朝の微睡ほど幸福な時間はない。現実から最も遠く離れた柔らかい天国のような感覚は手放しがたく、10分でも5分でもその時間を味わおうと、ギリギリまで眠ろうとする人は多いんじゃないだろうか。
この日の意識の始まりはそんな柔らかい感覚から始まるのだが、それは同時に違和感を伴うものであった。
「なぜ今日はこんなにゆっくりと、この柔らかい感覚を自覚できているのだろうか。」
普段は布団の中で目を覚ますことはなく、時間が来たら半分眠りながら身体を起こし、身支度をし、通勤をしながら徐々に目を覚ましていくため、自分が布団の中で温もっている状態を認識できる時間はない。
おかしい。もしかして。と思い、時刻を確認すると6時10分。1時間以上の寝坊だった。
どうりで気持ち良いわけだ。
目覚ましをセットし忘れ、安心して眠ってしまっていたらしい。
寝坊なんてかなり久しぶりだった。たいていは目覚ましが鳴る前に起きて、音が鳴る前に自分で解除しているのだが、この日はその体内自動装置が一切作動せず眠り続け、それに加えてアラームも作動せずにいた。
「あまり自覚できていないけれど、日々短い睡眠時間で朝晩働いているから、自覚できていない疲労が溜まっていたのかもしれない」
そんな風にその時は思った。
結局1時間遅れで仕事場に着き、普段と少し違う手順で手早く仕事を片付けて30分遅れくらいで一つ目の現場を終えようとしていた。
いつもであればもう次の現場に向かっている時間に、ごみの分別作業をしていたら、そのビルの受付嬢が現れ、間違って大事な書類を捨ててしまったので1階受付事務所のゴミをあさらせてほしいと頼んできた。
そんなこと言われても、各階のゴミを全部まとめて回収しているので、どれがどれだか分からない。9階建てのビル全部のゴミのなかから1枚の印刷物を探し出すなんて不可能だと思ったのだが、よくよく考えたら、これから分別しようとしているゴミがまさに1階のゴミだった。
作業の開始が遅れたのでいつもと違う手順で仕事を進めていた都合で、たまたま彼女が必要とするゴミを、たまたま30分遅れでその場にいた僕が「これです」という形で指し示してあげることができたのだ。
彼女はそのゴミ袋に目をやった時点でほしいものが見つかったらしく、「あー!これです!」という感じであっさり紙切れ一枚を、漁るまでもなく普通に拾って回収することができた。
あり得ない確率で困っている人を助けることができた瞬間で、まさに奇跡だった。
よりによって月の最後に寝坊したことが、さえない失敗のように感じられていたのだが、それが奇跡の一部として人を助ける結果に繋がったことが誇らしくなった。
すごく些細なことではあるのだけれど、自分自身がとてもうれしかったので、「見つかって良かったですね!」と、幸運な彼女を心から祝福した。




他人の幸運に立ち会うこと、幸運の縁を結ぶ役割を自分が担うことは、とても嬉しいことなのだということを、この朝思い出させてもらっていたのだと思う。
「たまたま運のいい女に出会った」というだけのことでは決してなく、間違いなくこの物語には汲むべき学びが含まれている。

これが、天使の悦びであり、天使の願いなのだ。

僕はいちいちその場で彼女に対して、寝坊がどうだとか、このゴミ袋はあり得ない確率で残されていたものでとかいった説明は一切していない。
「こういう背景だからありがたがってください」的な説明は煩わしいのでしていない。

天上界は聞かれてもいないことを教え給わない。
「求めよさらば与えられん」は法則なのだ。

感謝というのは恩恵が与えられたら受動的にするものではなく、能動的に発見していける努力目標なのだ。
運が良ければ頂けるのではない。
仏の御加護は日々必ず与えられている。
その恩寵を信じ、無償の愛を信じ、うやうやしく祈ることで見つけることができる。
これが真実である。



実はこの日を振り返るにあたって、何があったかを思い出そうとしても、何も思い出せずにいた。
唯一家計簿上に、1時間遅刻による給与のマイナス分が記録されていただけで、エピソードなんて何も出てこなかった。
2日ほど考えて何も出てこなかったので諦めようかとも思ったのだが、諦めた時点でこの一日は無駄になったということを意味する。
やはり絶対に諦めたくない。

必ず、主はこの一日に自分を成長させるための何かを与えてくださっている。
でも思い出すことはもう不可能のように思えた。

「寝坊」というキーワードから思い出された昔の話を広げてみようかと思い、書いても見たのだが、全然しっくりこないので削除した。

いよいよだな。
と思い、祈ることにした。




主よ
私の至らなさ、不誠実の罪をお許しください。
主から頂いた11月30日において何があったかを全く思い出すことができません。
この日私が気づくべきことはなんであったのか、学ぶべきことはなんであったのか、
主より与えられた成長するための経験はなんであったのかを、知るために必要なこの日の出来事を、どうか思い出させてください。
私は主がお与えになられた尊い時間を決して無駄にしたくはありません。
もしお許しいただけるのであれば、私に導きをお与えください。

天上界にましますわが魂の兄弟 守護霊 指導霊の皆様。
この日を通して得るべき大切な経験を私が思い出すことができるようどうかお力添えをお願い申し上げます。




ていうような内容の祈りをこの記事を書きだす前日の寝る前に、祈っていた。
祈りは必ず天上界に聞き届けられている。
そう信じ、感謝して喜びと共に眠りについた。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村


そして翌朝(記事を書く当日)朝の作業中、寝坊で遅刻したおかげで小さな奇跡を目の当たりにできたことを「フッ」っと思い出すことがようやくできて、今に至っている。
思い出した瞬間は、自分が前日に祈ったことなどすっかり忘れていた。
自分の頭で思い出そうとしていたら、インスピレーションを受けることはできなかっただろう。

きっと、この祈りによって天上界からのご指導を頂くプロセスも含めて今回の経験はワンパッケージだったのだろう。
だから思い出すことが一切できなかったのだと思う。

とても重要な教訓であり、奇跡のなんたるかを深く知るための経験だけに、それに関係のない一切のエピソードが見事に思い出のなかから消し去られていた。
10日ごしにどうにかこうにかたどり着くことができて本当に良かった。
奇しくも明日12月11日はエル・カンターレ祭で「奇跡を起こす力」という演題の御講演を主より頂くことになっている。
この辺の共時性に授かったことを得意がるつもりは決してないが、今後「奇跡」というキーワードを学んでいく上で、大事な心構えや、インスピレーションの種がこの一連の物語には数多く含まれている。
f:id:ssktmnr:20181210202717j:plain
たびたび読み返して勉強させて頂こうと思うし、おそらくこの記事を引用して「奇跡」というテーマを深堀りすることも出てくるんじゃないかと思う。というより話を広げたい箇所がかなりあったのだが、もうすでに収集がつかなくなっているのでこの程度で納めることとする。
この記事にある意味結論はないように感じるが、思考を練る「核」にあたる言葉を宿すことはできた実感があるのでこれで良しとしよう。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村

11.29(木)運命と聖なる磁力

東京正心館

日暮里

洗い替えツアーへ

12月の中旬に確保した3日間と18時間の休みをどう使うか、しばらく判断を棚上げにしていた。
生誕館には行こう。
それだけ決めてプラスアルファをどう組み立てると良いのか、考え始めるときりがなく、なかなか定まってくれない。
自分の自由に考えられることなので、そりゃいろいろ考えてしまうわな。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村



午前

東京正心館に参拝させていただいた。
あの荘厳な礼拝堂の大法輪の前に座っていたら、ちまちま考えるなと、言われたような気がした。
いろんなことをあれこれ考えていた騒がしい心が静まっていく。
雲の上は静かで広い。
地上がどれだけさわがしかろうとも、静かで広大だ。

小ざかしい計らい心を捨てて、やりたいと思ったことをただやればよい。
つべこべ言わんとどんと来いや。

そんな思いがすっと腹に落ちていく。
食堂でスマホいじりながら、往路のバスを予約した。



午後

日暮里の現場を片付けた後、初転法輪記念館へ。

週に一度必ずここに来れる体制になったことが本当にありがたい。
仕事で来なきゃいけないのだからその時々の自分の意思に関係なく参拝できる。
そういえば、
8月までは東京正心館のふもとの現場を選んで、東京正心館に日常的に行くようにしてたんだっけ。
都内で一人で現場回って仕事する体制を活用させていただいているが、こんなに頻繁に精舎に参拝する信者になるとは正直思ってなかった。

聖なる光を感じるような、神聖な時間は、宗教者にとってかけがえのない財産だ。
こんな時間を得られることは、信仰を持たず普通に生きていたら、まずない。
その時間は外の時間とまったく異なる密度で、とても精妙だ。
初転法輪記念館には無駄なものが何もない。
普段あれこれと考えをめぐらしては逡巡している頭をいったん捨てたほうが良いとその場で思った。
自分で考えようとしているから受け取れないのだ。
その余分な思考を取り除いて、ただただ純粋さ、静けさを感じ続ける時間にしようと思った。
心が静まるほどに、定まらなかった思いが整っていく。

今の心ならすべてを決められる。
決めかねていた復路の行程も決め、高速バスを予約完了。






f:id:ssktmnr:20181208062732j:plain





結局、行きたいと思っていたところすべてへ行き、やりたいと思っていたことすべてをやることになりそうだ。
ハードなスケジュールを余儀なくされるが、やっちまったもん勝ちだ。


聖地エル・カンターレ生誕館で『青銅の法』公案研修
伊勢参詣
名古屋記念館特別巡礼


高速バス計4本を駆使しての洗い替えツアー。
そりゃ逡巡して棚上げしたくもなるっちゅう話だ。


落慶の年に初めて生誕館に行ったときも名古屋と伊勢に行ったけど、この組み合わせならあの頃の自分と対比できて良いかもしれない。

あのときは最後名古屋正心館に到着する間際未来予知能力が活性化したらしく、なぜか東京でお世話になってる職員さんがいるような気がして、「何でいるの?!」的な会話をしているビジョンが浮かんだのだが、食堂行ったら本当にいて「何でいるの?!」的な会話をしてしまった。(笑)

その時の縁が自分に気づきを与えてくれる人とのつながりに結びついて、自分に大きな変化をもたらしたことを今思い出した。
そういえば翌年’17年に生誕館に行ったときも、奇跡的な人との出会いに恵まれていた。

今振り返ってみると、形は異なれど、どちらも霊的自己認識を引き上げる大きな事件で、その奇跡の連なりはとても長く続いた。
一つの出会いが一つの物語を作るだけではなく、次の物語や出会いを引き寄せる磁力をもった核のように働いて、数カ月にわたって自分を成長させる体験を与えてくれていた。
今年はどういう形になるのか予想もできないけれど、自分を成長させるだけではなく、他の人に良き影響を与えられるようになれたら嬉しいかぎりだ。

いつもそうだが、今の自分にたどり着くまでの連なりを辿っていくと、その根源には必ず精舎で得た出会いがある。
人との出会いであったり、言葉との出会いであったり、信仰心との出会いであったり、様々だが、何らかの強力な感化を得て、それを磁石化して運命を引き寄せている。
前の記事で「人生計画は生まれる前に放った投網」と書いたが、その網目の一つひとつが核となるべき約束の地での出会いにあたるのだろう。
http://ssktmnr.hatenadiary.jp/entry/2018/12/03/052140

今回の旅に限らず、常々そこへ辿り着くために導きを得られるような心境と行動を心がけたい。


良き旅になるよう、祈ろう。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村

11.28(水) すべては成長の過程にある

久しぶりに支部へ足を運んだ。
短い時間だったけど、癒された。
支部にいる皆の信仰の姿を見ていると、とても尊く、大切なものを目にしているような気持ちになる。
ありがたい時間だった。
もっと日常的に来れたら幸せなのだが、時間、場所、意識の問題で足を向けることがあまりできない。

自分に割り当てられている限りある時間をどう使うかをいつも考える。
後戻りできない一度きりの毎日の中で、今何にエネルギーを費やすべきなのか。
それを明確に把握して、しっかりと行動に反映させられているか、定かではないが、自分の歩んできた道を振り返ってみると、これで良かったのだと思える。
大切なことは、何を選択したか以上に、選択したものが何であったかをきちんと振り返ることなのだと思う。
選んだ道の先に何があるかは自分の自由になることではないけれど、その時間の中で、何を学ばせていただいていたのかを、振り返るかどうかは100パーセント自分の自由だ。
すべての一日は、振り返って探求することで、必ず自分を成長させるための教訓を掘り起こすことができる。
「あの時こうしていれば良かった」と思えるようなこともあったかもしれないけれど、すべては成長の過程なのだという気持ちで生きて、日々に教訓を探し求めていると、どのような苦難に見舞われようとも、その原因となった過去が悔いになることはない。
もし悔いることがあるとしたら、それだけの学びを与えられながら、成長を許された自分を世の中に役立たせることないまま人生を終えることだと思う。
すべてから学びを得ながら生きる人間として、「自分自身をどう生かすべきなのか」という問いかけは常に心のどこかにもっていなければいけないように感じている。
f:id:ssktmnr:20181207211029j:plain
主が創造している大きな大きな河の流れがある。
その中のどこに自分の身を置くべきなのか、どこに位置することが、この大河にとって最も好ましいことなのだろうか。
自分を生かさなくてはいけない。

支部で開催していた学集会に誘われたが、中途半端にクビを突っ込みたくなかったので、やめておいた。
学集会とかじゃなく、かしこまらず、ざっくばらんに立ち話をできるような機会が欲しいと思った。
もっといろんな人とおしゃべりがしたい。

12月に生誕館に行く。
自分自身をもっと分け与える生き方に新生できるよう、祈るのも良いかも知れない。
アンパンマンのように困っている人に自分を分け与えることができたら、本当に幸せだと思う。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村
アンパンマン瞑想でも考案しようかな。

11.27(火) つぼみを慈しむ心

1980〜90年代の御講演会のカセットテープをちょこちょこデータ化している。
この日は『知恵の原理』
経典と違い、会場の雰囲気が伝わってくる感じが良い。

かつて両親が拝受したものだが相当数ある。
今となっては再生機器がないため、誰も見向きもせず、棚やダンボールに詰められたまま眠っていたのだが、放っておくのはあまりにも勿体無い。
意を決してカセットデッキを購入し、アナログ音声をデジタル化するソフトを探し出し入手。
以来ここ2年ほど実家に帰るたびに数十本のテープを回収し、少しずつ東京の自宅でデジタル化し、スマホにストックして役立ている。

f:id:ssktmnr:20181206052443j:plain


PCがあれば↑こういう便利なソフトを使ってアナログ音源をデジタル化できるのでお勧めです。

もうすぐ年末年始で帰省するけど、このお宝目当てに帰るようなところもある。
二世会員として生きることができ、この上ない幸せである。

そういえば以前支部で初めて会った方に「失礼ですが、二世会員ですか」と質問されたことがあった。

失礼とはいったい何事であろうか(笑)

「二世」という言葉を卑屈なニュアンスで使っているように感じられる方(一世二世問わず)に会うことがまれにあるけど、もし「二世=残念な人たち」のような考え方が共通無意識層に潜在的にあるとしたら、そのような認識は一切取り除いて、青天井に期待してほしい。

一般の人よりもよほど霊的な集団なのだから、潜在意識の力で次世代を動かすことも殺すことも可能だと思う。
無論本質的には自分自身の責任だが、無条件にがっかりされているのは何だか悲しいものである。

これに限ったことではないけど、自分自身をも含めたあらゆる人に対して、限りない期待の心を向けておいた方がきっと得だ。

宗教そのものに関しても、「=はまっちゃった人たち」「=弱い人たち」「=馬鹿な人たち」「=怪しい人たち」といった偏見が、いまだに世の中にはあると思う。(あると思っていることも偏見かもしれないが)
自分が偏見にさらされるのは100歩譲って良いとしても、問題なのは、偏見を持つ側の人自身が「不幸から抜け出して本当の幸福にたどり着く」っていう人生最大のチャンスをつかめないという点にある。結局は偏見を持った側の損でしかない。

民族問題にも話を広めれば、中国人に対する偏見も無条件に広まっているように感じる。中国共産党に対するイメージの悪さを、そのまま国民に対するイメージの悪さとして二重写しにしてしまっている人が多いんじゃないだろうか。
僕が付き合いのあった中国人の多くは良い人達だった。
日本人とは違う気質ではあるが、付き合ってみると人懐っこく、日本人よりもオープンで清々しい。
こういう良い部分を偏見で切り捨てて、マナーがどうだとか小さなことばかり永遠とあげつらうのは、とてももったいない事だ。

良き可能性に対して心を開いていればこそ、チャンスに気付くことができるし、信仰を掴むことだってできるのではないだろうか。

自分自身も含めどのような相手であっても、仏の子であることを信じ、その仏性が目覚め、輝きを放つときを期待しながら生きられる毎日は、幸福であると思う。
その心は魂の親である仏の心に限りなく近い愛の心なんじゃないだろうか。
偏見の目で他人や自分を疑いながら生きる心は、不幸である。
仏性を見つめることなく生きる心は、不幸である。
幸福な心で、無条件に人の善なるを期待し、その輝きを想像するだけで、わくわくするし、うれしく、愛おしい気持ちになれる。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村

開花した桜はもちろん美しいけど、花びらをちらつかせている開花前のつぼみもまたかわいくて僕は好きだ。
彼らが太陽の光を浴びて開花していくのと同様に、僕たちもまた霊太陽の光を浴びながら、自らの仏性を開花させていこうとしている存在なのではないだろうか。
その秘められた未来に対して、前向きな想像力を働かせるだけでも、それは充分「与える愛」と言いえるだろう。
言葉には出さずとも仏はそのようなお気持ちで、一人ひとりに導きを与えんとしておられるのではないだろうか。
つぼみを慈しむような心で。

なんの価値もないと思っていたダンボールの中に、二世を目覚めさせる講演テープが山のように眠っていることだって現実にある。

いついかなるときも全てに宿りたる仏性を見つめようとして生きられる人をめざそう。
世界のすべてが愛おしく感じられるくらいまで、愛しぬきたい。