心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活において起きる心の変化や動きをスケッチしています。心の変化後に起きる現実の変化や奇跡といった結果よりも、「どういう心の変化がきっかけで自己変革をできたのか」という原因にフォーカスした描写を試みつつ、あれこれ自由に綴っています。要は信仰に基づく自己変革の実況中継と日々のあれこれです。

善悪を超える視座

乱高下する波長
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調子が調ったと思ってたらまた乱れ、バランスがとれない心にやや辟易しているが、そんな荒れ模様をどこか離れたところから静かに眺めている自分もいる。
心は海のごとく、海面と海の底とではその景色も静けさも大きく異なっている。


図太さと繊細さが共存している心をどう調律すればいいのかまだ掴めていないけど、課題が分かっているってことは、答えに向かっているってことだと思う。
自分で体験しながら掴んでいくしかないことだろう。
安易な方法論にたよって表面的に調ったように勘違いするより、もっと深いところでおきている動きを観察したいと思う。


自分をうまくコントロールできないからと言って、それを悲観的にとらえる気持ちはない。
荒れているようで、静けさがある。
荒れたくば荒れるが良いとさえ思っている。
すべては今必要があって与えられている愛。
自分の未熟さだとか悪想念の影響であるとか、そんな表面的な解釈でははかり知ることができない真実が必ずある。


心の深いところでは、結論は幸福であることを信じて疑うことがないから、静かでいられるのだろう。
一方荒れている浅い部分は、世の中の常識的な思考と結びついている層でもある。
ここをぷつんと断ち切ってしまえば、すべてが静けさの中におさまるのかもしれない。
自分の中に共存できないものの考え方を抱え続けているから、二つに割れるのか。。


自分自身の世界を掴みきれるかどうかっていう問題なのかもしれない。
書いているうちになんとなく見えてきた。
自分の精神的な居場所、ホームがどこにあるのかをしっかり掴むこと。
そのうえであらゆる階層に視野を持って活動するっていう自己確立が正されてしまえばだいぶ落ち着くんじゃなかろうか。
帰るべき場所を間違えなければ混乱することもなくなるだろう。


善か悪かだけではくくれない真実もある。
許し、或いは忍耐という時間的奥行きを、物事を見る目に与えることで、それは初めて見えてくる。
焦ることなく、深い心を見つめよう。

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愛が唯一の光


傷ついた人が暗闇の中に見失った
真実を見つめる力


正しさを押し付けようとしていた


どんな言葉もとどかない
耳の横を通り過ぎていく


その心に必要なのは愛の光


愛している


その優しい気持ちだけを大切に守って
透明にしていく


澄み切った水晶はやがて


純真な唯一の光を強くつよく放ち


傷ついた心を癒し


その心の内なる真実の世界を照らし輝かせる


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私たちは


望まれて


期待されて


今生かされている光の子供


愛の光が闇のかなたから世界を照らし始める


真実は目覚め
彼はその心に見つけだす


他の誰でもない
自分に宿された
宇宙にたった一つのその種子を


彼はその心に見つけだす


その種子を芽吹かせて
花ひらくときを心待ちにして
見守っている優しいまなざしが
愛で包んでくれていたことを知って


その喜びで彼は光の花を咲かせ
世界を照らしだす


その光はやがて


誰かの心の一隅を照らし


誰かの真実に目覚めをもたらし


世界に目覚めをもたらす
幾多の愛を芽吹かせていく


光の子供たちは眠り続ける


今も目覚めのときを待って


眠っている

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『青銅の法』公案研修を振り返る

今朝の礼拝の際に思い浮かんだ昨年末の旅を振り返っている。
その中で受けた『青銅の法』公案研修について書いてみる。
今一度『青銅の法』を頂いたその時の心を見つめ、今年残り4か月強および、今後を描く力としたい。


「魂の目覚め編」とあるが、解説を見ると「宇宙時代の菩薩への魂の目覚め」とあった。


宇宙時代の菩薩とかいうと、宇宙人信仰を連想してしまう。けど、全然そんなんじゃなくて、地球のみならず、宇宙でも求められる魂の進化とは何かが説かれているのだ。。
これって改めて考えてすごいことだ。。


で、宇宙時代の菩薩に求められる要件は、というと、一言で言えば愛なのだが、愛の定義として、
①受け入れる=寛容(違いと未知を受け入れる)
②一体となる=博愛(共栄・共盛・共育)
③生死(しょうじ)を越える=自己犠牲(献身・気高さ)
以上をもって魂の進化をすることで、「愛と奇跡に満ちた信仰者に新生する」とある。


「宇宙時代の菩薩」だとか、「魂の目覚め」だとかいう言葉はいかにも宗教的な雰囲気があるけど、その教えの中身って、「人間としての成長と幸福」についてなんだなとあらためて思う。
この情報(←あえて身近な言い方をしますが)を「宗教」っていう言葉に対する偏見的なフィルターで遠ざけるのは、すごく損なことだし、ここにタッチできないのはとてもかわいそうなことだと思う。
自分としては宗教っていうフィルターを外した媒体で教えを浸透させつつ、一方で宗教にたいする偏見フィルターをなくしていき、教えと信仰を掴んでいただけるように道を作るのがミッションになると思っている。


ただ、思うのだが、宗教に対する偏見フィルターがある時代と環境だからこそ不動の信仰が立つ面もあるとは思う。
その意味で日本の信者は「強い」ものを持っているし、日本はそういう魂の力を獲得するチャンスに今あるのだとも思う。
故に、今日本で信仰を掴んでいる人は、魂としての誇りと自信をもっと堂々と持って良いのだと思う。


久しぶりに研修の中身全体を振り返っても思ったが、自分自身を褒められる部分って結構たくさんあるんだなと感じた。
去年末に受けて、三か月くらい毎朝この研修資料を振り返る時間を取っていたのだが、そのおかげがあってか、その後今に至るまでの5か月強の時間が「おや?」って思うくらい、研修の中での教えや気づきに基づいて進んでいるように感じられる。
いろんな出来事や出会いや変化があったけど、どれも、『青銅の法』を学ぶカリキュラムとして与えられた導きだったんじゃないかとすら思えるし、その指導に応えて自己発揮し自己変革をしてきた自分を認めることができる。
自分自身を守るために慢心を厳しく戒めることは大事だけど、正当な自己評価に基づいて自信を持つっていうことも忘れてはいけない修行課題なのだと今感じている。
何もしないくらいなら失敗した方がましだと思うし、その中に慢心による失敗もあっても良いんじゃないだろうか。
若い人は特に。

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ちょいと脱線しますが、
自分自身失敗の多い人生だったと思うのだけど、大事なことは失敗しないことではなく、失敗に気づけることだと思う。
自分の非を認めるって実は結構できないことで、真理を学び始めたころは、自分の間違いを見て見ぬふりをしてみたり、何かしら言い訳になる正当な理由をうまいこと作り上げて、反省から逃げていたことを思い出す。
みじめな自分を見つめるのがつらかったのだろうと思う。
しかしながら、自分自身の失敗や間違いをきちんと受け止めないと、違うシチュエーションで同じような間違いを繰り返して、同じように苦しむことになり、全然人生が展開していかないのだ。(これって地獄と同じ構造だと思う)
間違いや失敗を犯さないために学んでいる面もあるかもしれないけど、「それは間違いだ」と気づくよすがとして学び、その時が来たら立て直せるように反省の教えも説かれているんじゃないだろうか。
そう考えると反省は積極果敢な人生を展開していくための、心強い武器だとも考えられる。(ていうかそういうふうな教えがあったような気もする。)
なので、もっと勇気をだして自信を掴んで良いし、自信そのものを追い風を呼び込む磁石としてさらなる飛躍の気流に乗っていかなければ、低い理想に甘んじてそれなりの”現実”に甘んじることになるのだと思う。
今年に入って随分「図太さ」が身についてきているのだけど、でかい失敗に耐えうる自分づくりをしている面もあるのかもしれない。
大きな成功の歯車に乗っていくうえで必要とされる胆力もあるのだろう。


で、話を戻しますが、
今年は『○○の法』の年とかいうけど、その通り今年ならではの魂教育の霊流ってもんがあるのだと思う。
そこに乗っかることで飛躍的に魂を進化させていけるのかもしれない。
「恐るべし法シリーズ」といったところだ。


その点に関しては去年まではボケーっとしていて、全然乗れてなかったんだと思う。
自分の人生の歩み相応にそういう流れに乗ったり乗らなかったりということもあるのだろうか。
日々に説かれる新しい教えについて、随時すべてを学んでいるかと言えば、まったくで、ある意味開き直って自分がやるべきだと思ったところに今力を注いではいるのだけど、それでいて「ついていっていない」という感じは全然していない。
毎日リバティーのニュース(これはでかい)を見たり、うっすら最新情報を取り入れているのもあるが、やはり『法シリーズ』の流れに乗っているかどうかっていうところなんだろうなという感じがする。
(もちろん常々教学もするし礼拝と精神統一もしますよ。)


研修で染み込ませた指針に沿って知らずしらず動いていることに今回気づけて良かったし、改めてハッとさせられるような気付きも多かった。
ここに根を張って伸びていく自分っていうイメージを毎年きちんと持つようにしておこう。

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大いなる力の中で

徐々に徐々に深い集中状態が長く続くようになってきていて、執筆生活と言うにふさわしい日々にようやくたどり着けた感じです。


少し前まではアイデアが浮かばないんじゃないかとか、ちゃんと完成まで持っていけるだろうかとか、作品には関係のない余計な迷いをいろいろ心に持ち込んでは重くなっていたけど、そういうのを全部取っ払って心を軽くしたら楽しんで原稿に向かうことができるようになった。


今は作品を書き進めたくてしょうがない。
従ってブログをしばし留守にしてました。


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こうなりたいなという理想像を現実に出来ていることが、とても幸せだ。
形として執筆中心の生活が出来ていることも嬉しいのだが、中身のあるものが出来上がっていく手応えがなによりもの褒美として心を満たしてくれています。


物語は思っていたよりも奥行きがあって、素通りしていた箇所から新しいシーンがジワジワと浮かび上がってきたりするので、意外と時間がかかっている。
発掘作業でもしているかのような感じがあって、掘り進めていくうちに新しい通路や部屋が見つかってだんだんに繋がりがはっきりしていく。
それによって前後が矛盾したり結末がぶれたりといったことが今のところ起きていないので、発想の迷路に迷い込んでいるっていうわけではないようだ。
物語をこの世に現す作業ってかなりおもしろいです。


やり続けるうちに、作品作りってこういうものなのかっていう自分なりの執筆の感覚もだんだん掴めてきた。


理想を描いて引き寄せるとか言うけど、とにかく経験しないと何をどう描くべきかも分からないもんだなと感じている。


今は無理やり金と時間の都合をつけて、「やってみた」っていうところだけど、その無理やりの突破が無かったら的外れなイメージングとかに時間を費やしていた可能性は高い。


何かしら行動があるからこそ、妄想ではなく、具体的に描くべきものを見つけられるのだなと、実感している次第です。


とは言え、
4月くらいまでは実際に具体的な行動をすること自体がとても億劫に感じていて、長い間足踏みをしていた。


本当にやれるんだろうかという疑い。
自分に対して失望する未来への恐れ。
体験したことのない理想を思い描くこともなかなかできず、手探りで進むしかなかった。
いざやり始めても迷いはあったし、そういう心が繊細に影響して執筆の妨げになることも全然理解できていなかった。


経験のない分野に分け入って道を切り開くっていう作業は、霊的な導きなしにできることではないのだなと実感している。


細かな方法論とか法則とかを自分がマスターすればできるという感じで考えていたけど、それは思いあがった考え方だったのだなと今は思える。


自助努力は大切な基本姿勢だけど、そこにしがみついてしまうと自我を増大させ傲慢になり、やがては自力天狗に陥ってゆく。
故に祈願は「修行」だと言われているのだとも思い至っています。


本当は大いなる他力の中でささやかな自力が許されていて、そのささやかなる限界にすらほど遠いところで小さく出来上がろうとしていたのかもしれません。


信仰をしっかり立てて謙虚に精進させていただきたいと思います。
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思い出して辿り着く

久しぶりに朝起きて(最近は大抵昼過ぎまで死んだふりしていた)ボケーっとしてたらなぜかフッと意識の表層に昔聞いた曲がが浮かんできた。


Nightnoise Shadow Of Time - YouTube


shadow of time
っていう曲名がどこからともなく思い出され、「あー懐かしいな。聴きたいな。」となり、YouTubeですぐ見つけ、「そうそうナイトノイズだ」と。
他に曲知らないんだけどね。


中学高校時代に聞いていた音楽をなぜ今思い出したのだろう。
すごく嬉しい。
当時はテレビなんて一切見ずにFMラジオにかじりついて音楽を日々吸収していた。
周りにそんなことしている友達なんて一人もいなかった。
家にあったラジカセを適当にいじくっていたらたまたまFMラジオからわりと最近の音楽がたくさん聞こえてきてはまりこんだのが始まりだったな。
カセットテープにかたっぱしから番組録音していろんな音楽とDJのしゃべりに何度も耳を傾けたものです。

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ここ数ヶ月、気づくとふと昔帰りしている瞬間が多い。
中学時代に好きだったアーティストにインスパイアされて詩ができたり、新しい道を見つけたりっていうことがたびたびある。
あの頃の純粋な感じに回帰していこうとしているのかも。
年を追うごとに「もてたい」とか「かしこく見られたい」とかいう不純な動機でいろんなものを求めて吸収してを繰り返してきたけど、中学時代ってそういうのなかったな。
感情の赴くままに自分の世界を豊かにしてくれる音楽を求め、絵を書いて、物語の世界に浸っていた。
そこに共感者は一人もいなかったけど、一人きりで求められる何かがあることが自分にとって「自分」を確認できる大切な時間だったのかもしれない。


今も、やはり共感者を求めるでもなくやはり、「自分」の本当に望む道を求めているのだと思う。
その道中にはやはり「もてたい」じゃないけど「こうあるべきだ」とか「こうあらねばならない」的なあとづけの”おりこうさんへの道”が幾重にも現れ、何度も何度も「自分の道を見失っては苦しみ」を繰り返しているわけだが、結局潜在意識は本当に何をしたいか知っていて、何度も中学時代に自分を連れ戻そうとしてくれていたのだと思う。


大人の意識で目の前に見続けていた「こうあるべき」っていう飾りのようなフィルターがどうにも気持ち悪くて、これを外さないと生きていけない感じになってきているんじゃないだろうか。
「生きていけない」というのは比喩ではなく、実際に昼過ぎまで死んだふりしている最近の自分そのものにダイレクトに表れていて、これまでまとってきた分厚い鎧のような観念を脱ぎ捨てないと「自分」でいられないところに今いるのだと思う。
だってそれは自分じゃないのだから。


「自己変革」というよりは中学くらいのみずみずしい感性で生きていた自分に立ち返るような過程を今辿ろうとしているのか。
おもしろいなと思う。
あの頃の純粋ないくつもの疑問に対する答えを四半世紀かけて探し続け、見つけた今、再びその純粋な自分に戻って歩き出そうとしているかのようにも感じられる。
そういう考え方に今すごく納得できる。


心の深い部分。自分の「核」に近い意識はあの頃に立ち止まったまま待っていたんじゃないだろうかという感じがしてならない。
心の表層だけは20数年の旅を通していろんなことを知った気になっているんだけど、本当の自分はあの頃から一歩も前に進まずじーっと待ち続けてくれていたんじゃないだろうか。
たしかに、当時の自分が納得できる生き方が今の自分にとっても幸せなありかただなと思える。
そう考えるととても楽だ。
急激に欲しいと思ってたいろんなものやことがいらなくなっていく感じがする。
本当にやりたいこと、望む道を知っているから。


宗教的真理を深く学んでいくと、とても不思議な感じがする。
「知らないことを学んで身に着ける」という感じではなく、「忘れていたことを思い出す」という感じが正解のような気がする。
そのきっかけを現代的な言語で教わっているので、新しいような気にもなるんだけど、結局はいつのまにか「本来の自分」に立ち返っていて、「あれ?」ってなる。
限りなく未知を求めて外へ外へと向かって旅をして宇宙を追い求めていたら自分の心の中にいる自分に気づくっていう感じ。
故に真理は無限なのかもしれません。


年取ったつもりが14歳位にようやくたどり着いたような不思議な感覚に今います。
ともあれこれで再スタートできそうな気がします。

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大きく受け止める

どういうわけかしばらく寝てばかりの日々が続いています。


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夕方からの仕事以外の時間は生きてるのか死んでるのかも分からないほど中身のない時間を過ごしていて、せいぜい昔の講演テープをデジタル音源に変換しつつ教学する位しかまっとうなことはできていない。


でもさほど落ち込むでもなく事態を受け止めていて。
結構しんどいんだけど、あまり気にしても仕方ないかなと、はなから開き直っている。
弱いんだか強いんだかよく分からない人間です。


常識にとらわれない図太さをもう一段強化しておこうという感じなのかもしれない。
善だ悪だ霊障だといったそういう小さい問題を見つめ過ぎてもしようがない気がしている。
そのくらい振り切った感じのキツさはある。


それなりに意味があって今起こっていることだろうし、「まあドンと来いや」っていう謎の自信でこの不調を受け止めている。


だいぶ気分は落ち着いてきている。
スランプや不調は嫌なものだけど、「まあ、構わん」と腹が据わると案外楽だ。
今すぐ逃れたいっていう焦りそのものが苦しみの現況になってしまうのだろう。


理想とする未来が不動ならばジタバタすることもない。
時間を耐える覚悟を決めれば心は平らかになる。
落ち着いてしまえば得るべき智慧をこの体験の中から掴みだすこともできよう。


今最も必要な導きの中にあることを信じて疑わない。
キツくともこの姿勢は一切崩しません。


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大切で不要なもの

やはりどうもコンディションが調いません。


もがいてむりくりどうにかするっていう感じでもなさそうなので、静かにしようと思う。



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空白を作って仕切り直す。


思いの中に取り込んだ色んな景色をいったん洗い流して白紙にしよう。
余分を落とすことで自然に浮かび上がってくるだろう。


きっと、自分にとって大切だと思っているものの中に、透明ならざるものがあるのだと思う。


そこには、人間として生きる中で生まれる悩み苦しみを克服する努力へのとらわれだったり、凝り固まった考え方も含まれている。
より多くを知ろうとする欲もそうだろう。


それらは否定されるべきものではなく、一面において必要とされる姿勢なのだけど、主と一体とならんとするときにおいては、すべて手放さなくてはならないもの。
「自分」なるものが消え去るほどに思いを透明にする。


今まで得てきた、そして、これからも得ていくであろうあらゆる経験や智慧や能力も、自分の持ち物ではない。


我見から遠く離れることでもっと軽くなることができる。


ただ真理とともにあるだけの自分になっていきたいと思います。


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