心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活において起きる心の変化や動きをスケッチしています。心の変化後に起きる現実の変化や奇跡といった結果よりも、「どういう心の変化がきっかけで自己変革をできたのか」という原因にフォーカスした描写を試みつつ、あれこれ自由に綴っています。要は信仰に基づく自己変革の実況中継と日々のあれこれです。

今気付きたい愛と孤独の問題

身近に人が沢山いる事を忘れた人々が、一人きりで悩んで苦しんでいたり、人と人との繋がりを忘れ、世間と分断された家庭内でDVや児童虐待などの犯罪を起こしたり、便利で気楽で孤独な社会のひずみを日本は今経験している。

新潟方面を大きな地震が襲い、避難所で寄り添う人達の映像を見て思ったのだが、孤独社会のひずみが拡大していくことに対する警鐘を鳴らす意味でこうした大きな地震や災害が起こされていることもあるんじゃないだろうか。


17日月曜日に見たテレビ番組では、別府にハマる外国人に密着した、別府での温泉めぐりの様子が放映されていたのだが、その外国人を温泉に連れて行くために街の人々が協力し合って食事もそっちのけで、地元別府の為に、地元別府を愛してくれる外国人の為に、できる限りを尽くす人々の姿が映されていた。
外国人は「別府は町全体が家族のようで、自分も別府の家族になりたい」との理由で温泉名人の称号を目指して88箇所の温泉を巡っていた。両親が離婚し、母子2人で生きてきたからこそ、尚のこと人と人との繋がりに価値を見出して、何度も日本の別府に足を運んでいたようだ。


先週テレビでチラッと見たが、ずっと一人で暮らしていて、誰にも見向きもされない腹いせに、他人の家の飼い猫50匹位をさらって殺したっていう男性の事件が報道されていた。

別府ではまず起きないことだろうなと思った。
児童虐待もそうだが、人と人が繋がり合って支え合う社会には、それそのものに犯罪を抑止する力がある。法律や監視カメラなどの環境的な対策によって抑止していく効果もあるとは思うが、それ以前の問題として、人間同士の愛の不足が不幸を招き、社会を窮屈で不自由にしていっていることに目を向けるべきではないか。


3.11のときの事を思い出すよう促される夢を見た後、悩み相談の現場を目にしたが、そこで苦しんでいる人は、皆おしなべて孤独の中にいた。
僕が今この世界で目にして心に残しているのは、孤独の闇に対してどう光を繋げるかというテーマなんじゃないだろうか。


「孤独」というものは、簡単には見えにくいようになっていて、気づく頃には何かしらの「ひずみ」として現象化してしまっている。それは児童虐待などの事件や、個人の悩み苦しみ、最悪の場合戦争や災害といった形で多様に現れているのだが、これが現象として「見える化」する以前に根っこにある「見えない孤独」と闘わなくてはいけない。それは、社会のあり方として正すべき部分が大きいとは思うが、スタート地点の個人個人の問題意識を啓蒙する事は、個人から始められる事だと思う。


テクノロジーが人同士の繋がりを拡大しているようにも見える時代だが、仮想の友達と本当の友人の区別を曖昧にしていっている部分もある。
吉本の闇営業事件だって、きちんとした繋がりであったなら犯罪グループに大切な先輩を関わらせるようなことになるはずは無かっただろう。
便利な道具が本当に大切にすべきリアルな繋がりを補完せず、形式的なものに留め、実質分断する流れの加速装置になっているとしたら、その使い道を考え直すべきだろう。


最近LINEを辞めたのだが、かえって人との繋がりを考えさせられる流れが起きているような節もある。

先週は道端で小学校時代の同級生にばったり会ってダイレクトに”繋がった”(笑)。まるで夢でも見てるかのように普通に現れた。聞けば2年前からお互いに気付かずに同じビルで働いていたらしい。気づかないまま2週間後に退職するところだったが、とりあえず来週無事に飲みに行くことになった。

また、ネット上の悩み相談という形で、孤独の中で苦しんでいる人に繋がり、愛を与える経験をさせて頂いた。


なんのために他の人がいて、彼らと出会い、繋がる機会がこの世で与えられているのだろうか。
同級生と偶然の再開をした瞬間のお互いの歓喜は強烈だった。
いつもと同じ一日が始まろうとしている会社員の彼と、今日も一人で仕事を片付け一人で執筆し、一人で一日を過ごそうとしているフリーターの僕が、一気に青春時代に引き戻される。お互いに今付けている仮面が壊されて、今しか見えていなかった現実に亀裂が入り、記憶の通路をこじ開けて、遠い昔と同じ空の下に今いる真実を思い出させた。
どこでどんな仮面をつけていようとも、俺たちは俺たちでしかいられない。
いつの間にか、仮面の自分が本当の自分であるかのように錯覚しているんだけど、見失ってはいけない本来の自分があるんだって言うことを、あらゆる事件や現象や災害を通して、思い出させようとしているのかもしれない。

痛ましい事件や、甚大な災害にそのような意味付けをなぞらえる事を「不謹慎」と捉える人もいるとは思うが、それは肉体生命よりも大切なものがある事を理解しない人間の、見識の限界なのだと思う。
あらゆることから謙虚に学ぶ姿勢を失ったら、本当に大切なものを気付かせようとしている、神様の見えない愛を受け取ることはできなくなる。


人と人が寄り添う事で、助け合えるありがたさや、他人が存在していることの喜びを実感できる、別府のように天国的な世界を作りたい。
そして孤独を乗り越えた仲間たちと温泉入ってタイムラインに投稿したい。


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今回の地震では怪我人だけで済んでるようなので正直ホッとした。ホルムズ海峡の件もそうだが、この延長上に何が起こりえるのかを忖度し、人としても社会としても未来に対する姿勢を正すべきときなのだと受け止めたい。

宇宙の創造力を得るために

静かで平らかであること


リラックスしていること


幸福な気分で取り組むこと


自分と自分の心の力との信頼関係を強く結んでいること


難しいと思い込まないこと


あらゆる可能性に心を開くこと


スランプに寛容であること


子供のように純真であること


心は問題の外側に置くこと
内側でさまよわないこと


楽しんでいること


主たる自分の心によって、力(創造力)を従わせること




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自信と愛

■■悩みリサーチから悩み相談へ■■
最近悩みリサーチをしている。
世の中にどんな闇があるのかを知ることでどんな光が必要なのか理解したいとの思いからだったのだが、リサーチというより悩み相談にいつの間にか精を出している。
そういう掲示板がネット上にあったので見ていたのだが、「たすけてください」と書いてあるのを放っておけず、気づいたら4日間で8人の悩みにガチ回答していた。

相談の投稿を見るだけで、放っておいたらどんどん不幸になっていくのが目に見えている人が助けを求めている。
自分にはその解決方法が見える。
これで見てみぬふりをできよう筈がない。

■■利他行の思わぬ収穫■■
悩みは本当に様々なのだが、ありがたいことに、伝えるべき言葉が出てきてくれる。
自分が悩んで学んできた事がここにきて誰かを救う力として蘇り、生き始めている。
自分が経過したあらゆる時代のあらゆる悩みや苦しみが、一人を救う言葉として生かされるたびに、過去の苦闘が報われ、祝福されていく。
奇跡の瞬間だと思う。
他の人を救うたびに自分自身が救われていることに気づかされるのだ。
利他業ってこんなに味わい深いものだったのか。

何より嬉しい感動は、エル・カンターレの教えの救済力を身を持って体感させて頂いていることだ。
今まさに地獄領域に引きずり込まれようとしている人を、本当に救い上げることができるのだ。
ものすごい自信に繋がる。
これは感動というよりむしろ自覚が足りなかったことを反省しなくちゃいけないのかもしれない。

■■教えの価値に対する見くびり■■
自分が教えを学んだだけで満足していた。
自分が自分自身の悩みを解決しただけで満足していた。
きつい言い方をすればそんなとこだ。

自分の悩み経験や学びを生かして、人の心に救いをもたらす作品を作ろうとしていたので、悩みや学びを自己完結させはしないっていう思いは持っていたんですよ。友達の相談に乗ったりしてましたしぃ。
そんな弁明を誰かにする。

現実に苦しみ、希望を見出だせず、孤独の中で助けを必要としている目の前の一人を、「今」救う智慧を、自分は山ほど預けられている。
そのことを充分に理解しないまま、本当の「救い」を描くことが果たして出来ただろうかと考える。

自分が預かっている教えの力を実はまだまだ見くびっていて、過小評価している。
自分の考えの狭さや器の小ささに、主の教えを狭めて閉じ込めている。
本来持つべき「自信」を、”わざわざ”小さなものに押し留めてしまっている。

もったいないことしてるんだなと気づかされる。



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■■教えがもたらした奇跡的な感化■■
悪霊の囁きに苦しめられ、「死にたい」という気持ちに支配されそうになっている人がいた。
具体的に対策をお教えしたら、「不安から救われて涙が流れた」と希望の返事をいただいた。

「同僚のことを死んで呪ってやりたい」と半狂乱状態に陥りかけている人がいた。
自分も同じような気持ちで苦しんでた過去のこと。考え方を改め、自分の心を変えて乗り越えたことを回想しながらお教え(というより誘導)したら、感謝の言葉と共に、「自分も困っている人に手を差し伸べられる人間になりたいです。謙虚に精進します」と、心を改められた。

いずれの反応も、僕の想像の域を超えた劇的な化学変化で、正直「こんなにも響くものなのか」と驚かされた。

■■微差が産み出す天地の差■■
この相談を見てみぬふりをして素通りすることもありえたかもしれない。
「自分の学びや経験なんか、そこまでたいしたことないし、責任持てないよな。」なんて思ってたら、口出ししなかったと思う。数年前の自分だったらそう思ったかも。
少し前の自分であっても、「これは偽善なんじゃないか」と思って逡巡しただろう。

それは、相談者の人生の明暗を決定的に分ける違いだったろうし、教えに込められている偉大な救済力を知りもせずに、小さく扱い続ける愚かな仏弟子でい続けるパラレルとの境い目でもあっただろう。

■■自信の価値■■
そのきわどい境い目を超える要素は「自信」だった。
教えに宿されている救済力に対する過小評価
自分の愛に対する疑い心
いずれも自己信頼を妨げる「我見」だ。

「謙虚」という言葉を隠れみのにして、自信を持てずにいることは、仏弟子として怠慢であり、無責任であり、罪なのだと思った方が良いのかもしれない。
それだけの重要感と決意を持って、自信に関する自己変革をしていく価値はある。

目の前の一人を救いあげることができた喜び
主のお役に立てた喜び
人様の運命に責任を負う意識が産まれ
真剣に祈らずにいられなくなった。
何も見返りはいらないから、伝わってほしい。助かってほしい。
伝えるべき言葉をお与えください。
差し伸べた手が届きますように。掴んでいただけますように。
手を握り返してもらえたときの喜び。安堵。
天使たちへの感謝。
主への感謝。
相談者への感謝
「与えさせてくれてありがとう」
「もっと与えられる人間になりたい」
心が豊かになっていく。

こういう幸福を手にするチャンスを仏弟子として頂いているんだと知るにいたる。


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■■自信なき自分■■
以前僕は自分の善意や愛をどこかで疑っていた。
自分は本当にこの人を愛し、施しを与えようとしているのか、それとも偽善的なのか。教条的な義務感だけなのではないか。かっこつけたいだけじゃないのか。善行をすることで自分を安心させたいだけじゃないのか。
そんな疑いが自分自身を肯定できない観念になって、豊かになることや、成功していくこと、希望を実現すること、幸福になること、人を愛すること、あらゆる発展を妨げる重い足かせになっていることに中々気づけないまま何年も過ごしていた。
発展のイメージを強くありありと描くことが苦手だったり、明確な目標設定が苦手だったりするのも、全て自己信頼の欠如を起因としたものだったと思う。
「これは欲なんじゃないだろうか」
少しでもそんな気持ちが現れると、間違った発展を恐れ尻込みするのだ。

■■自信を養うために■■
ここ数ヶ月の間のどこかのタイミングで僕はこの疑いを完全に払拭した。
どこだったろうか。
記事に残したような気がすると思って振り返ったらあった。
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「やらねばならない」とか「やるべきだ」っていう縛りつけるような思考を捨て去って、自分が心から望んでいる道を確かめた。
随分遠回りなやり方だったと思うが、要は「自分」と「自分の仏性」との信頼関係を修復したのだ。
そして、自分自身で自分の生き方、或いは人生に対する姿勢を決めることにした。
誰になんと言われようとどう思われようと関係ない。
仏性に対する信頼に基づいて、「仏の子として自分がどう生きるか」という問題に対して全責任を負ったのだ。

永遠に輝ける自分の仏性を信じることができていないと、いくら実績や評価を積み上げても、張りぼての自信にしかならない。
張りぼてにあたる部分を積み上げて大きくしていく努力も大切ではあると思うけど、実績や評価に頼らない仏性に対する揺るぎない信頼を持ってこそ自信は本物になる。それは、「仏の子である人間は仏の性質が宿されている」という教えに対する信仰があって唯一成り立つ自信でもある。
本物の自信という不動の土台があったからこそ、何の実績もない自分が深い暗闇の中に攻め入って、迷い苦しんでいる人に救いの手を差し伸べることができたのだ。

■■天使たちと共に■■
エル・カンターレ信仰に基づく自分の仏性に対する信頼はもっともっと深めていけるだろうし、それは終わりのない修行として持ち続けなければ、救済力を小さく押しとどめてしまうことになるだろう。天上界はそんな小さな自己満足を信仰者に望んではいないはずだ。
仏性に対する自信という揺るぎない土台の上に、信仰の柱を立て、真理の骨組みを張り巡らせる。そして、実績による自信という社会的信用を外壁のように組み合わせていくことで、より多くの魂を主の光で守る「砦」、或いは「神殿」を心の中に建設していくイメージを持とう。
数多くの悩み相談を見聞し、自分自身がその現場で実際に動いてみて思ったが、天使たちはこの地上に救済の手を差し伸べるための窓口を求めている。
それを担うことが出来るのは、主のもとで真実の教えを学んでいる信仰者以外にない。
自信に満ち溢れる信仰者の心に神殿を築き上げることで、多くの天使たちの求めに応えることがきっと可能になる。
自分一人の自己実現のために自信が要されているのでは断じてない。
光と闇がせめぎ合う中で、今にも地獄領域に落ちていこうとしている人たちがいる。
小さくあってはならない。
自分の愛を疑ってはならない。
多くの人たちがよりどころとできるような立派な人間を目指してゆきたいと思う。
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愛 -This is my 原点-

長い夢を見た。
「もし迷うことがあれば、ここに戻れば俺たちに会うことができる。0311号室。3.11だよ。」
3.11なら覚えやすいね。などと話した。
夢から覚めて印象に残ったいくつかのポイントを振り返ったが、「3.11」の話が一番強く残った。
その部屋で4人くらいの仲間と過ごした夢だったのだが、メッセージとしては3.11のときの現実の思い出を振り返ることが自分にとって大切なことなのかなと感じた。


昨夜久しぶりにワインを飲みつつ(そういえば全然禁酒してないw)アナザースカイを見てた。
モーリー・ロバートソンハーバード大学の学生時代を振り返っていたが、印象深かったのは、「ハーバードでの過酷な日々を生き抜いたことが自信という財産になっている」
「いつどの時点で人生の転落があってもゼロから人生を作り直すことができる自信が身についた」
というようなことを言ってたと思う。

僕自身がたどってきた道で掴み取った考え方を言い表しているような気もして、とても共感というか共鳴するような響きがあった。
「底力」っていうのかな。
思うように行かない苦しい状況でどんな時間を積み上げてきたのか。
その軌跡が自分自身を支える確かな実績であり、自信でもあり、神様から与えられた特別な愛だったと思える。

これって世の中に何を残すことができたかっていうこと以上に大切な原点なんじゃないだろうか。
信仰を持って神様と共に苦しい道を乗り越えてきたんだっていう自覚がなければ、如何なる自己実現も独りよがりのものにしかならないだろう。


3.11前後は確かに自分にとって大きな変わり目の時期でもあったと記憶している。
当時は弱かった。弱い自分を見つめて落ち込んでしまうような傾向が強くあって、とても惨めだった。
あらゆることがうまくいかず、閉塞感の中でもがいていて、出口が中々見えないトンネルの中を何年も歩き続けているような感じで、一番きつい時期だったかもしれない。
救いは信仰があったことと、いろんな人たちとの出会いに恵まれていたこと。


失意の中でようやく短期間の仕事にありついて、4月以降の長期の仕事も決まり、なんとか気持ちが上向いていたころに震災がやってきた。その日に偶然一緒に一夜を過ごした人たちと何故か飲みに行って、ものすごく明るい時間を過ごしたことを鮮明に覚えている。そのときは、自分を中心に周りの人をめちゃくちゃ笑わせて、その場をかなり盛り上げていた。不思議なくらい力が湧いて、スポットライトを浴びているような輝き方をしていた。

自分の挫折感覚でいっぱいになっていた心が、震災によって破壊され、外に向かって光を点じることができるようになった瞬間だったんじゃないだろうか。モーリー・ロバートソンにとってのハーバード体験と比べられるものかどうか分からないけれど、「This is my 原点」と言って良いポイントが実は3.11の意味だったのかもしれない。


苦しい時期なんて他にいくらでもあるし、どれが一番だなんて決められるものでもないんだけれど、世界が暗闇に沈む中でひときわ強い輝きを放っていたあのときが、神様にとって望ましい姿だったんじゃないだろうか。
考えても見れば、あのときの僕はちょっと神がかった光り方をしていた。
何年あとにでも思い出せるよう、その日に許された体験だったのだと思う。


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主と共に闇夜に光を点じる


それが自分を輝かせていくうえで忘れてはならない姿勢であり、唯一の目的。


真理に出会ってからの人生は、苦しい時期が多かった。
前向きに受け止めて、良く言うこともできるけど、葛藤の連続だったと思う。
でもそれは、苦しみの中を主が共に歩んでくださっていた、「愛の時間」だった。

真理と、自分自身の日々を照らし合わせ、考え続け、10年経った今、それが分かる。
深く深く愛されていることを自覚するために与えられた時間が、自分の中で揺るぎない誇りと自信になり、感謝を形あらしめる力になる。


これが信仰の価値だろうし、信仰者としての自分が持ち続けなくてはならない文脈だ。


自分のことばかり考えて苦しんでいた青年が、愛に導かれ自分を超えて世を照らす光となっていく。
そんな愛と奇跡の物語を描くからこそ、霊性に目覚める意味がある。


どんなに惨めで何も持たない自分であっても、主と共にあったあのとき、確かに光を与える側に立つことが出来ていたのだから、ゼロからでもマイナスからでも、自らの人生を光あるものに必ず作り変えることができる。


愛あらば。
主と共にあるならば。

筋トレがやめられない

先週の月曜あたりからなんとなく筋トレをやりだしている。
腕立て5回レベルから初めたくらいなので、本当に気合いゼロからのスタートだったのだが、毎日続ける内にやめられなくなってしまった。筋トレ直後にご飯を食べるようにしたのが習慣化の一因となったようで、食事を取るときは必ず筋トレをしなくてはいけない空気になってしまった。
時間かけたくないし、あんまり頑張りたくもないので軽めにしてたのだが、軽めの内容なので妥協したらヘタレという感じがするし、毎日必ず腹は減るのでやらざるを得ない。なんだろうこの”やらされてる感”は。
生きて飯を食い続ける限りやめられないループに迷い込んでしまった感じがする。
まあ悪いことはほぼ何もないので良いんだけど、飯のたびにお膳を目の前にしてフンフン良いながら腹筋やら腕立て伏せやらをすることになるとは思っても見なかった。
犬ぞりレースの犬が筋力増強のためにトレーニング直後に食事を与えられているのを前にテレビで見てたので、それにならってみたのだが、「鍛えざる者食うべからず」という観念が日々の食事にうっかり付加されてしまった。LINE辞めて犬ぞりレースの犬に感化されてと、私は一体何処へ向かおうとしているのだろうか。
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今自分が大事にしようとしているのは直感のような本来人間に備わっているオーガニックな潜在能力なのかもしれない。
直感と言えば、10代の頃をふと思い出した。
実家には目覚まし時計を使う文化が無く、母親ががみがみ言いながら朝子供たちを起こすか自力で起きるかどちらかで目覚めが行われるのだが、そのおかげか僕は自分で起きたい時間ぴったりに目を覚ますことができた。前日寝る前に何時何分に起きようと決めて、時間ぴったりに起きることができた。ためしに秒単位で起床時間を決めてみたら、そのとおりにぴったり目覚めることもできた。
また、違うエピソードになるが、親戚が営んでいる魚屋で週末や夏休みを利用してバイトをしていたことがあったのだが、わかめや貝など、量り売りの商品を計量器にかけて100グラムとか200グラムの皿を作って店頭に並べていたのだが、それも1グラムの狂いも無く自分の感覚で盛ることができた。
時計や計量器といった道具によって正確な時間や分量を知ることができるようになっているわけだが、その気になれば直感などの潜在的な力で事足りる機能って案外多く眠っているんじゃないかと思う。いろんな機能をコンパクトに持ち運べるスマホが今やマサイなどの少数民族にも普及するほどで、人類の必須アイテムになっているが、人類が歩んできた技術進化の歴史って、五感を超えた第六感以降の能力を知恵の結集によって追いかけている歴史なのだと思う。スマホなどの端末はいずれチップとして体内に組み込めるほど軽量化し、非物質化していく流れにあるが、結局それって霊的能力への憧れが生み出している進化なんだと思う。それは便利は便利なのだが、便利だけを追求していくと、そのうち五感以下の基礎能力すら技術に頼り出すようになるんじゃないだろうか。それは身体に障害を持つ方の助けになる進歩として現存しているものも多くあるが、一方で人間が本来有する力を放棄していく流れを作るものであるならば、それは進歩ではなく退化や堕落を意味することになるだろう。努力によって人間性を成長させていくことが人生の醍醐味であり、楽しみであり、幸福に繋がっていくことだと思うんだけど、便利が優先された結果、いつの間にか技術の奴隷になって全然幸せじゃない世界にたどり着くことだってありえるし、そうなってしまっている一面も現代にはあるんじゃないだろうか。

人間に備わっている能力や霊性が一部技術化していくことによってあらゆることがスピーディーに処理され、時間や空間が凝縮されて余暇が生まれること事態は悪いことではないと思うが、その余暇をただただ便利さを消費する時間にしたり、一人の世界に引きこもるための鍵とするのではなく、人間性を解放し、よりすばらしい芸術や文化や霊性の高みを生み出すために使われるようになれば、技術文明の進歩は人間にとって成功であったと言えるようになるだろう。


習慣化してしまうと不思議なもので、以前の筋トレしない生活って、わざわざだらしなく生きていたように感じられてくる。悪しき習慣にしても然りで、飲酒やタバコ、パチンコなど、もともとは無くても平気だったはずのものが、なくてはならないもののように”いつの間にか思い込まされている”ことがある。スマホもそうだろうな。
習慣って下手すれば一生続くもので、人生に影響を及ぼす部分は必ずあると思う。それがスパイス程度のものになるか、毒薬並みのものになるかは個々の習慣によって異なるとは思うが、善き習慣を持つように心がけることで人生に善き彩りを加えていくことができるなら、少し見直してみる価値はあると思う。

犬ぞりの犬が僕の今後の人生にどう影響を与えていくのか不明瞭ではあるが、オーガニックな潜在能力を引き出す一助として何らかの善い流れを生み出せれば幸いである。

LINEをやめた

LINEて便利だなと思った。

2つ前の記事でほのめかしていたが、LINEをやめた。
言葉って本当に力がある。書いて外に出すことで自分に暗示がかかるようだ。

やめてみて思ったが、スマホを完全に捨てることなく軽度のおこもり状態を作れるので、LINEにある程度依存しておいて良かったなと感じている。


特に何の前触れも説明もなくアカウントを削除したのでいきなり失踪した感じが出ているのかもしれないが、いちいち根回しして「連絡はこちらまで」なんて言ってたらおこもりにならないのでバッサリと切り捨てた。母親だけに一応連絡を入れておいたが、他は全員平等に「ぷっつり」した形だ。まあ番号知ってる人はよほど何かあれば電話するだろう。


当然のように気楽に連絡取れる状態って便利は便利なのだが、人間の霊性を損なっている面が大いにあると思う。
魔法系の法話でも「現代では科学が魔法の役割を担っている」といった趣旨の話があったと思うが、これは「科学やテクノロジーによって人間に本来備わっている霊的な力が退化させられている」ということを暗に示してもいると思う。
退化したなら補う手段が必要だと言うことでLINEのようなツールがヒットしているのだろう。その背景には、自分が失ってしまった霊的な機能を求めんとする人間の本能が潜んでいるのだと僕は思う。
で、補った結果がともだちとして繋がっていれば誰でも意識の中に自由に干渉できるっていう状態なのだが、インスピレーションで勝負するタイプの人間にとってはあまり好ましい状態ではない。情報力で勝負するタイプの個人や組織にとっては確かに使えるものだろうが、僕の場合はちょっと邪魔だなと、ずっと思ってた。
一人で集中して精妙なチャンネルにチューニングをしたいときに、誰でも勝手に部屋に入って来られるような状態は何とかしたほうが良いなという気持ちが、ここ最近高まっていたので、ちょっと思い切った。


まあ、それだけ重要な仕事をしようとしているので仕方がない。その重要度を説明する術も暇もなければ、示す事のできる根拠もない。自分が完成させる仕事によって証明するしかないだろう。かなり自己中心的で独りよがりにも見える選択なのかもしれないけど、断じて自分の仕事を完成させることしか考えていない。


幸い必要以上の人間関係を持っていない状態に今はあるので、今しかできない集中状態を作り上げるチャンスを活かさなくては勿体無い。全てを捨てて打ち込むだけの価値がある尊い仕事だ。

頑張ろ。

海がある土地で産まれ育ち、18まで暮らしていた。上京するまではそれが特別なことだなんて思いもしなかった。
上京していろんなことが田舎と違っている事にショックを受けたが、それらの中でも「海」の喪失は当時の自分にとってとても大きな代償に感じられた。
今では海が身近にない生活が当たり前となってしまったが、いつかまた海の近い場所で暮らしたい。
東京で生きていく以外の人生が許されるなら、やはり他のどこでもない、故郷の美しい海を見降ろせる場所で、遠くの波音を感じながら詩人として生きたい。

あの広さ。
開放感。
水平線の彼方から運ばれてくる風。
果てが見えない雄大な世界の中に小さな自分を感じるとき、とてつもなく大きなものに抱かれ、守られているような気持ちになれる。


いつか旅を終えて安住の地を定めるとしたらそんな環境がいいかなと思うが、今はまだまだ広い世界を飛び回っていろんな人と出会いたい。
だから東京にいるんだろう。常に人工物に取り囲まれて圧迫されるような世界感で息苦しい感じもするけど、刺激に満ちて飽きることがない。
そして、ここを足場にもっと世界中を知りに行きたい。
今は世界中から東京に人が集まってきているので、いろんな人と知り合えるチャンスでもある。去年ホテルで仕事していたときは同僚全員外国人で凄く楽しかった。
またホテルで働きたいとは言わないが、あの出会いが得られるなら「あり」かなとも思ったりする。何か違う形で出会いの場を見つけられたら嬉しいなと思う。
じゃなかったらただ単に狭苦しい都市であくせく働いているだけになってしまう。
作家として生きていくとしても、多様な「違い」との出会いに恵まれていることは大きな財産になるだろうし、なにより純粋に僕は「人」が好きなのだ。

単に景観とか自然環境だとか利便性だとかいう問題ではなく、たとえ大きなストレスにさらされたとしても、かけがえのない出会いを得られるから今ここに自分はいるんだ。
それを忘れて日々に終われ本当に望んでいることが見えなくなりかけていたかもしれない。


結局心の景色を最終的に決めるものは、環境ではない。
都会の狭苦しさにつぶされることなく大きな世界に目を向ける自分自身の意思だろう。
そして、意思だけではなく、実際に沢山の人と会って、自分の心の中になかった世界を知り、新しい色彩をスケッチに取り入れて行きたいと心から思う。
子供の頃から海が好きだったのは、情緒的に落ち着くというのもあるけれど、その先に広がっている知らない世界への憧れも大きくあった。
「こんな狭い田舎から絶対に出ていくんだ。もっと広い世界を知るために。」
そんな風に子供の頃から思っていたけど、37になった今、海の向こうに思いを馳せる暮らしも良いなと思うのは、単に里心がついたとかいうわけではなく、子供の頃のように広い世界を求める気持ちが高まってきているからなのかもしれない。

「こんな狭苦しい心の景色なんかぶち破って、はやく広い世界に出たい」
そんな願望がこのごろ見え隠れしているような気がする。