心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

満ち溢れる幸せ

積み上げては崩す
積み上げては崩す
そんな人生を繰り返してきた。


何かを始めるたびに、心のどこかで「また積み上げて崩すんじゃないか」と自分を疑ってきた。
なんでそうなるのかと疑問に思っていたけど、そもそも自己否定を動機に人格形成をしてたからなんじゃないだろうか。
これは克服すべき欠点だと思って自分の中から除外しようとしていたものが、実は欠点ではなく個性だと気づけないまま否定して生きてきた。
永遠に満ちることのない月のように、常に何かが欠けている状態が自分にとっての理想なのだと、潜在意識に指令を出しているような状態だったのではないだろうか。
だから、何かが満ちようとするたびにそれを阻止するような働きかけを無意識に実行する。
幸福になれない症候群の自分なりのからくりが見えてきた感じがする。


恋人ができそうになったことが過去に何度かあるが、いずれもフラれるたびにホッとしている自分がいた。
そもそもフラれそうな相手を選んでいるところから、満ちることへの忌避は始まっているのだが、ときには実際に相手の前で「良かった」とさえ口に出していた事すらあった。
そのときはさすがに「病気だな」と思った(笑)


ここ最近なぜか「これからは幸せになりたいな」と、ふと思うことが何度かあった。
もしかしたら、幸せになれるのかもしれない。
足ることを知るという意味で「自分は恵まれている。幸せだ。」と思ってきたし、自分独自の人生を生きられていることが幸せであると今も思ってはいるけれど、それは「わたしの幸せ」だ。
これからなろうとしているのは「わたしたちの幸せ」なのだろう。
自分自身が満ちていくことを許可できたのだから、もう積み上げたものを崩す必要性はなくなった。


欠けたものを満たすのが幸福だと思ってたから、満ちたら欠けるようにしむけてきた。
これからは満ち溢れた光を分かち合う幸福を心に描けばいい。
あなたは幸せになることができる。


f:id:ssktmnr:20191206094705j:plain




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ
にほんブログ村

丁寧に大切に

案外自分は正直に生きていなかったのだと気づく。


自分の気もちより、見栄えの良い理想を語り、そこに自分を合わせる。
そんな考え方と行動の組み合わせで生きてきたんじゃないだろうか。


2日前から経典『鋼鉄の法』をゆっくりじっくり読んでいてそんな風に思った。
毎年一冊ずつ『伝道の法』『信仰の法』といった形で法シリーズを頂いているけれど、今回の『鋼鉄の法』はやけに自分自身に重く迫ってきているように感じている。
「あなたのことですよ」と、自分自身に語りかけられているような気がして、簡単に先のページへ進んでいくことができない。
何度も前のページに引き返して読み直すのだけど、ときどきハッとするような言葉を「発掘」する瞬間がある。
まだ、二章までしか読めていないのだけど、本当に読みごたえがある。


このごろ「丁寧に生きる」という言葉が自分の中でキーワードになっている。
一か月前くらいからなんとなく気に入って、「丁寧な暮らしをする餓鬼」というツイッターアカウントをフォローしているのが何気に影響している(笑)
暮らしの中のこまやかなことを大切にしながら生きるって幸せなもんだなと思う。
とくに、一人暮らしをしていると家事を全てこなしつつ、信仰生活だったり、仕事だったりを進めていくので、やることが多い。
気もちが荒れて来ると、かならずそれらのうちの何かが雑になっていき、心の荒れ模様が目に見える形で現れてくるところがある。
そうなってくると、暮らしの中のちょっとしたことを楽しむ気持ちが薄れていき、心が貧しくなっていく感じがする。


豊かさや美しさは、季節の移ろいと共にある平凡な日々の営みのなかにある。
街の景色や空気の肌触りが、四季の移り変わりとともになだらかに変化していく中で、食べるもの、着るものも変わっていく。
無常の移り変わりが一年一年繰り返されるたびに、そこに暮らす人たちの間で静かに共感の世界が積み重ねられていく。
今日初めて出会ったような人であっても、去年、一昨年と積み重ねることができた共感の世界を心に刻んでいるおかげで、別々だった心を繋げ合わせることができる。


「美」という共通の言語を通して互いが結びつき合える心を「豊かな心」と言えるのではないだろうか。
そして、その美なるものは、実はとるに足らないと思っているような毎日の繰り返しの中に潜んでいる。
丁寧に暮らす中で美を感じる瞬間を「風情」と言うのではないだろうか。


時間に追いかけられ、自分一人を勝ち抜けさせようと必死になっているときに、「丁寧な暮らし」などというものに価値を見出すことはできないだろう。
結果ばかりを求めるがゆえに、その過程にある風情を犠牲にし、本当は一番欲しかった心の豊かさを見失う。
人と人との繋がり合いよりも、自分一人の安心のために、彼はひたすら急ぐ。
この世的なことを「取るに足らないつまらないもの」と思いこむがゆえに、本当は大切なことをどんどん通り過ぎさせて、自分の時間をひた走る。
大切なことを粗末にしているから生活をつまらなくさせているってことに気づかずに進んでいくのだが、実はどこにも近づけないまま、ただ速足で歩いているだけにすぎないのかもしれない。


私は私の人生を歩んでいきたい。
「あなたの人生はどんな物語ですか?」
「自分が今まで歩んできた道の中で、一番の感動ってなんでしたか?」
「この世界にいるすべての人と共有している一つの世界の中で、あなたはどんな発見ができましたか?」
「人間という共通体験の中で、どんな新しい体験を得られましたか?どんな可能性を発見できましたか?」
そんな問いかけに答えられる自分になることが、「自分の人生を生きる」ってことだと思う。


自分以外の人と共有できる自分独自の発見。
世界は分かち合うために与えられている。
同じ一つの青空を見上げながら、「ぼくにはこんな風に見えますよ」っていう美の視点を与えあって感動を共有する。
自分の人生を自分一人のものとしない、「分かち合える美」をたくさん拾い集めることは、与える愛であり、豊かさそのものだ。


本一つを紐解くにしても、独自の感動を伝えられるような読書にしたい。
そう思うようになったら、読書もまた自然に丁寧になった。
精読することが格好いいからとかじゃなく、「この本を読んだ」と言い切れるようじゃないと、もったいないと思うから。
「それはどんな物語ですか?」
「どんな感動がありましたか?」
「どんな発見がありましたか?」
「自分にとってそれはどんな体験でしたか?」
そんな問いかけに答えられるくらいになって初めて「この本を読んだ」と言い切れるんじゃないか。
ページをめくっただけで「読んだ」と言うのは、あまり正直じゃないし、感想が言えないなら、読んだとは言えない気がする。
人生だっておなじだ。
「自分の人生を生きた」と言い切れる生き方があるはずだ。


新しい職場で出会った芸術に造詣の深い人の話を前の記事で触れたけど、彼のように、自分の感動を言葉で相手に伝えられるまでにぼくも感動して分かち合えるようになりたい。
それが、本当に心を豊かにする幸せな読書体験であったり、観劇であったり、音楽との出会い、物語の出会い、芸術との出会いなのだと思う。
その読書は自分自身の心を耕すだけにとどまらず、心の中で独自に実らせた果実を他の人と分かち合えるまでに育てたということであって、作者の最も喜ぶ読者の姿でもあるだろう。
作品の中に込められている「共有できる一つの世界」から、他の人と結びつき、分かち合える実りを育てる。
とても丁寧で至福の読書になるんじゃないだろうか。


案外自分は正直に生きていなかったのだと気づく。


自分の気もちより、見栄えの良い理想を語り、そこに自分を合わせる。
そんな考え方と行動の組み合わせで生きてきたんじゃないだろうか。
理想という心の中にこしらえた見栄によってひそかに現実を見下して粗末に扱う。
「自分は急ぐから」と、自分を何か特別な存在に仕立てあげて、自分の殻の中に閉じこもることを正当化している。
他の人と分かち合える人生を本当は望んでいるくせに、そんな平凡な現実を「取るに足らないつまらないもの」と自分自身に思いこませ、大切なものを通り過ぎさせていく。
そんな仮説が浮かんでくる。


自分はこの人生を生きる中で、人間としてのこんな可能性や感動、喜びをこの人生を通して新たに発見したのだと、言えるようになりたい。
そうであってこそ、初めて「生きた」と言い切れるだろう。
別々の個性として生まれているのは、別々に生きて死んでいくことを良しとしているのではなく、それぞれに実らせた独自の美=果実を分かち合うことをもって、この世界を豊かにしていく喜びを良しとしているのだと思う。


f:id:ssktmnr:20191206000924j:plain


私は私の人生を歩んでいきたい。
そうであってこそこの世界において生きる喜びや人生の美しさを味わう「希望」を指し示すことができる。
他の誰かにならなければ幸せになれないなんてことは、決してないのだ。
そう思ってもらえるような独自の人生のきらめきを、丁寧に見つけ出し、大切にしたい。
自分の人生の尊さをきちんと理解することで、きっと他の人の人生も大切にできるし、互いに分かち合う豊かさも大切に大切にしていくことができるだろう。

生霊を自分自身に飛ばしていた疑い

生霊論 ―運命向上の智慧と秘術― (OR BOOKS)

生霊論 ―運命向上の智慧と秘術― (OR BOOKS)

新刊経典『生霊論』を読みました。


生霊って要は「三次元的な霊」ってことなのかもしれないなと思った。
現世での自分の欲求によって作り上げた重たいエネルギーのようなもの。
自分の生霊体験を振り返ってみても、確かにそれぞれの欲求アピールが必ずあったことを思い出す。
ということは自分自身も生霊になっていたことあったんだろうなと、同時に反省する。


最近の自分はというと、欲求というか気力というかやる気があんまりないので、生霊をつくることはできなそうだ。
心は結構穏やかで、落ち付いていて、良い感じなのだが、やる気がな。。
本領を発揮する前の土台としての平静心を作っている所なのかもしれない。


悪い感じではない。
変に焦って「がんばらなくちゃ」っていう感じに自分を追い込む傾向からは外れることができている。
「こういう自分であらねばいけないのだ」っていうような考え方も、重たいエネルギーを作り出す欲求に分類できると思う。
今はそういうのが無くてとても軽い。


むしろ「こういう自分でも良いね」って思えているので、不満がないのだ。
新しいパソコン必要だなとか、そういう意味での欲求はある。
年末実家帰りたいだとか。
そういうのって欲求というより希望か。
とくに執着しているわけではないから、重さは感じない。


ちょっと前まではもっと重かったなと今思った。
「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」「こうあるべきだ」「こうせねば」
みたいな感じでいるのが当たり前のようになっていたと思う。
それはブログ記事に反映されているはずなので、読み返せば如実にそんな感じが出ているんじゃないだろうか。


もしかしたら、だけど、
僕は自分自身に対して生霊を飛ばしていたのかもしれない。
それだけ自分に対しての欲求、「こうあってほしい」「これが理想である」といった押し付けがましい美徳を毎日のようにぶつけていたんじゃないだろうか。
でもそんな別人の仮面のような理想はことごとく実現できず、結局ぶっ壊したのが作品を出版したのちの一か月だったように思える。


「やる気がない」っていうのは、これまでの仮面を被るかのような理想の実現は「一切やる気がない」ってことなのだと思う。
本当の自分なりの理想を再構築するために、この空白のような時間を過ごしているのかもしれない。
とはいえ20%OFF くらいの凡事徹底生活は普通にこなす。
というより土台づくりが一番大事なところなのだと思う。


なぜあともう少しで2019年修了っていう段階でこんな変容がなされたのか不思議だったけど、実は来年に向けた着実なタイムスケジュールに則って運行しているのかもしれない。


今になって思うが、今年はすごく頑張ったと思える。
去年のことが思い出せないほど、濃密なひと月ひと月を歩んできたと言い切れる。
そして、明らかに別人になった感じがあるし、これから先さらに内面の変化を現実に現していけると思う。
というより、一か月残っているのだから、今年の内に自分なりの「本当の理想」を自分で決めるっていうのが、『青銅の法』の年の卒業課題になるのかも。


うっすら「こういうの良いな」っていうのはあるので、うっすらをはっきりにしてみれば良いのかも。
それが、来年の計画になるだろう。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村

想念と出会いと聖人ルカ

いろいろ仕事を探していたが、気が付いたら近所の救急病院で働き始めている。
病院で働くことになるとは思わなかった。
嬉しいことに人間関係が良好だ。
少し癖のある問題児もいるらしいけれど、ぼくが会った人はことごとく雰囲気の良い人たちで、不思議なくらいに早くなじんでいる。
中でも、芸術や音楽に造詣の深い人が一人いて、美術展の話やパリの話、文学やクラシックなどについて思いがけず話が盛り上がった。
自宅から徒歩五分の病院にこんな出会いがあるなんて、ちょっとおもしろすぎる。
とても情熱的な人で、森本レオが油っこくなったような語り口。
彼にゴッホチャイコフスキーについて熱く語られるうちに、懐かしいものがこみ上げてくるような感覚があった。
上京して初めて行ったピカソ展で味わった、本物を見た時の感動。
パリのノートルダムで受けた衝撃。
名作から自分が受けた感動を熱く熱く語る喜び。
相手は58歳のおじさんなんだけど、芸大の浪人生かなんかのような雰囲気があった。
いつの間にか心の奥で眠ってしまった学生のころの青臭い情熱をつんつんされた感じ。


ssktmnr.hatenadiary.jp
ここ一か月かけて至った自己発見の流れがまだ続いている感じがする。
置いてけぼりにしていた自分の一面を内外から目覚めさせていくような出会いが続いているのかもしれない。
その流れに伴って、自分自身の「想念の質」も変化してきているのだろう。
独り歩きする想念が自分の身の回りに集めて来る出会い、それ自体の質も、ここ十数年はなかった類のものに変容してきているように感じられる。
ssktmnr.hatenadiary.jp
おもしろい。


自己発見によって浮上してきている個性は芸術系だと理解している。
じゃあなんで医療系の職場で、とも思うのだが、案外医療と芸術には接点があるのかもしれない。
芸術療法や、音楽療法といったこともあるし、今日たまたま知ったのだが、聖ルカという天使は医者と画家の守護天使らしい。
なんでもパウロの宣教に付き添った医者であり、画才もあった人で、初めて聖母マリアを描いたのだとか。
聖路加国際病院も正式な読みは聖ルカらしい。
レオナルド・ダ・ビンチについて調べてたら辿り着いた情報です。


f:id:ssktmnr:20191201212534j:plain


なんで病院に縁を貰ったのか不思議だったけど、意外なところで繋がるもんだな。
そういえば明け方のボーっとしているタイミングで閃いて開いた求人サイトで見つけた仕事だった。
ピンとくるものがあってすぐに応募して、面接⇒採用までわりととんとん拍子に事が運んだ記憶がある。


もう一つ良い感じの仕事を見つけたいところなので、何らかの良き縁を手繰り寄せられるよう心掛けます。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 閃き・インスピレーションへ
にほんブログ村

自由を訴う聖なる鳥たち

4日くらい前からなんとなく頭の中で響き続けている。


www.youtube.com
香港の自由を守るために戦う人たちへ 恍多「名もなき little bird」


実際に空を飛んでいるんじゃないだろうか。
たくさんの人たちの願いが。


一人ひとりの心に創造主が与えた「自由」という小さな鳥たちに、自由を訴う声が「目を覚ませ」と朝を告げ知らす。


鳥たちは一羽、また一羽と、少しづつ少しづつ空に大きな群れを作っていく。


創造主の愛の風に乗って、海を渡るときが来た。


願いを届けるために
祈りを届けるために
愛を届けるために
力を届けるために
思いの道をつなげるために


広げることのできる翼が私達にはある。


鳥たちの訴う声が、垣根のない私たちの心の中で、大きく大きく広がり、鼓動のように地球上に響いていく。



聖なる者たちに、聖なる力が宿りますように。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村

自己発見

f:id:ssktmnr:20191123172254j:plain
こっちはネコ発見


どうもやる気が出ない。
出そうとしていないから出ないのだろうか。
無理して出そうとするのもなんかな。


感謝が足らないのかな。



でも
ここしばらく考えてることは感謝というより自分に対するいたわり。


粗末にしてきた自分を大切にしてやりたい。



本当の自分らしい自分のために生きたい。



経典『ユートピア価値革命』の中に、すなおに自分らしく生き続けていたら、どんな自分になっていたかを反省してほしいと書かれていた。


ドラマ『僕たちは奇跡でできている』を見ていて思ったが、自分がすなおに自分らしく生き続けていたら、この主人公のようになっていたんじゃないだろうかと思った。
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07RB7PNFR/ref=atv_tv_hom_1_c_UaBXVV_2_1



むしろ周りの人からはそんなふうに見えているのかもしれない。


とくに10代20代の頃なんかは、普通の人と同じように振る舞えるようになろうとかなり必死に努力していたと思う。


取り繕ったり演じたりしながら、それなりに協調できる人格を作り上げた気になっていたのだが、本来の自分をすっかり忘れてしまっていた。


忘れてしまっていたというより、そもそも肯定していなかった個性なので、否定して、消し去る努力が若かりし頃の自分にとっての「協調」であり、人格形成だったのだと思う。


要するに自己否定なのだ。


努力しなければ不適合で役立たずな個性が出てくるから、頑張って修行しなきゃいけない。
何かを達成せねばならない。
成長しなくてはならない。


そういう考え方に追いかけられるようにしてやっている努力と
心から望んでやってる努力


二種類の努力があったことが分かってきた。


ここ一ヶ月くらいの間で出会った本やドラマを通して「自分とはどういう人間であるか」が開示されてきている。


と同時に、否定して消し去ってきた本当の自分が目を覚ましてきているようだ。


宗教的な悟りという意味での「目覚め」とまでは言えないけど、本当の自分に目覚めていく最初の段階なのかなとは思う。


置いてけぼりにしてきた自分に気づいて、ようやく同じ船に乗せることができた感じがする。


もう否定してないから気づけたんだと思う。


ピュアでけがれのない個性。
ずっと眠らせていた欠点だと思っていた一面。


もう否定もしないし、置き去りにもしない。


自分は自分らしく生きるから、ゆっくり自分の道を歩んでいくことを恐れることもなくなるだろう。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ
にほんブログ村

想念が独り歩きしたよ

昨日なんとなく見つけたドラマ『僕らは奇跡でできている』がいろんな意味で面白い。


僕らは奇跡でできている
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07RB7PNFR/ref=atv_tv_hom_1_c_UaBXVV_2_1


去年放送していたらしいけど、基本ドラマを見ない人なので全然知らなかった。


独自の世界を持つ子供たちについて思いをはせながら記事を書いた直後に同じような題材を扱っている物語に出会えたのでびっくりした。
ssktmnr.hatenadiary.jp
その前の記事では想念について書いていたが、まさに想念が働いて同じ波長をもつ者同士引き合った形になっている。


生みだした想念が「ぼく独り歩きしたよ」と主張せんばかりに働いてくれてるじゃないか。
波長同通の法則がこんなにも分かりやすい形で、しかも一瞬で働きかけたのは初めてだった。


記事を書いただけでなく、実際に想念を意識して祈りをあげたことが大きく影響しているのだと思う。
すごいリアリティだ。
きちんと光の方向に思いを向けて、成功想念を育てていこう。



自分で作った記事に対してさらに学びと実感を深められるような、不思議な現象は、小説を書いていてもよく起こる。
よく起こるというより、意図せず同時進行で仕上がっていく形になっている。
物語をそういう共時性によって仕上げていく作家って実は多いんじゃないだろうか。
作家がすべてをコントロールする世界ではなく、作家自身が実体験した実在する思いの世界だからこそ、読者の心の中で再現できるんだと思う。


今回見つけたのはドラマで既に映像化された作品だけど、脚本の段階で作家が実体験した思いの世界が実際にあったんだと思う。
だからこそうちの子(想念)がたどり着けたのだと考えられる。


こういう感覚で世界をとらえていこう。


ドラマ自体もまたとても良い内容なので、別途取り上げたいと思う。