心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活の日々に思うことを綴ります

運命の設計図

本心を隠す傾向

新しいノートパソコンを購入した。文章を作るのにどうしても気軽に持ち運べるノートPCが欲しいと思い続けていた。今はトリプルワークのフリーターだが、自分の文章で飯を食べていきたいというのが本音で、お気に入りのカフェでコンパクトなノーパソをカタカタ打って作品を作る生活って素敵だなとずっと思っていた。

目指すのは自由なんだから好きに目指しゃ良いっていう話なのだが、本当にかなえたい願望に限って遠慮したり、欲しくないふりをして自分をごまかしたりする心の傾向が僕にはあった。ちょっとした欲望に対しては遠慮どころかがまんできないくらいなのに、心から叶えたい夢に限って尻込みしてしまうのだ。

この心の傾向は長らく持ち続けてきたもので、子供の頃からずうっとこんな感じだったような気がする。普通の子供は欲しいおもちゃやお菓子を見つけると素直に欲しがるし、ダメと言われても食い下がってなかなか諦めてくれない。良い言葉を使うならガッツがあるのだが、大人の目から見たらそれはガッツではなくわがままということになる。

一方僕の場合は普通の子供と違いガッツがなかったのか、あまりわがままを言わない珍しい子供だった。子供のわがままにいつも手を焼いている大人からすればさぞ良い子に見えただろう。きっと喜んだり感心したり褒めてくれたりしていたと思う。自分がわがままを言わないことに対して大人が感心したり喜んでくれたり、褒めてくれたりすることが僕にとっては嬉しいことだった。逆に、ガッツを出して欲しいものを欲しいと言うと、たいていの場合良い顔はされず、褒めてもらえることもなかった。そして、欲しいものを欲しいと言うことは悪いことであるかのような考え方を持つようになっていった。これがすべての原因ではないと思うが、少年時代に培ってしまった欲しいものを素直に「ほしい」と言うことに対する抵抗感は、欲しいものを手に入れることそのものに対する抵抗感として発展してしまったんじゃないだろうか。

これは結構根深い心の病で、欲しいものが手に入る寸前になると怖くなって諦める言い訳を探してみたり、手に入らない何らかの理由が現れると心からホッとしたり、或いは最初から叶わなそうな=「叶わなくても仕方ない」っていう言い訳がしやすいターゲットに心を惹かれてしまったりといった具合で、『幸福になれない症候群』と言ってよいだろう。

当時の僕はこのような心理パターンに自分が陥っていることにまったく気づいていなかった。ちょっとした欲望程度であれば自分から理想の実現を拒むようなこともないのだが、自分にとって幸福の核心となる“願望”といえるようなレベルの願いになると、この症状が発症し、夢をかなえられない自分を作り上げてしまうのだ。

自分自身「これは病的だな」と感じずにはいられなかった事例がある。

その当時勤めていた職場に好意を抱いていた女性がいた。女性とは飲み会で仲良くなり、度々二人で飲みにいくようにもなっていった。女性には同棲している彼氏がいた。僕はあるとき女性への想いを打ち明け、ふられてしまったのだが、そのときに思わず「よかった」と口に出してしまっていた。

これこそ自ら不幸を望んでいるとしか言いようがない状態だ。不幸になりたくてそういう相手を選び、不幸が実現して「よかった」と言っていたのだ。何のためにガッツを出したのか分からない。そして、フラれたことよりも自分の口から不幸を安堵するかのような一言が出てしまったことに対して、落ち込んだ。

こうして客観的に過去の自分を分析できるのは、その魔境ともいえるような状況から脱出できたからなのだと思う。苦しみの渦中というのは、渦に巻かれているため周りの世界がぐるぐる回っているような状態であって、自分のことを冷静に見つめることなんてなかなかできないものだ。今となってはなんてことないのだが、このパターンから抜け出すまでは苦しかった。こんなことで、自分は果たして幸せになることができるのかと。周りの人間は普通に恋人を作ったり、結婚し、家庭を作ったり、成功や出世をしていったり、社会の中に何らかの座席があるのに、自分には座るべき席がなく、居場所がわからずに一人でウロウロしているような感じだった。

心の癒しの先に何を見るか

そんな当時、世界中に置いてけぼりにされているような孤独感を癒してくれた一つの物語があった。

井上雄彦先生の『バガボンド』という漫画作品に宮本武蔵の幼馴染でヒロインの「おつう」というキャラクターがいるのだが、作品の中で描かれるおつうの心理描写は僕自身の抱えていた心の傾向性に重なるものがあり、とても胸に迫るものがあった。

おつうは捨て子で赤ん坊のころ拾われた寺で親を知らずに育つなかで、幼馴染の武蔵を慕いやがて大人へとなっていくのだが、父母に甘えることを知らずに生きてきたため、欲しいものが手に入らないことがあまりにも当たり前のことになっていた。強さを求めて放浪する武蔵とおつうは離れ離れに生きていたが、おつうは武蔵を慕い続けていた。あるときおつうは切り合いの放浪の果てに傷つきボロボロになった武蔵との再会を果たす。おつうは動けない武蔵の世話をしながら過ごすのだが、武蔵に付き添って二人で生きるという目の前にある幸せに手を伸ばすことができずに再び武蔵と離れ離れになる。

うろ覚えだが、そんな感じの物語だったような気がする。

とても美しく感じる描写で、作品の中でも深く感情移入してしまう一幕なのだが、悲恋の描写に感情移入しすぎると、悲しみそのものを美しいものとして肯定的に捉えてしまう危うさがある。

 

人間の未来は、各人の心にある「運命の設計図」によって引き寄せられている。それは人それぞれに違っていて、「こういう設計図を持ちましょう」などというように教育を受けることはまずないのだが、実は誰もが意識せずにこの「運命の設計図」を心にもっている。

 

名作と呼ばれるストーリーの中には必ず作者の美意識が流れている。それは多くの場合苦しみや悲しみといったネガティブな要素を通して表現される。

苦しみや悲しみは好んで味わいたくないものだが、名作には欠かせない「深み」の部分でもあり、作品に触れる人に強さや優しさをもたらす大切な要素なのだと思う。一時的につらい思いを味わったり、気持ちが暗い方向へ引きずられることはあっても、乗り越えていくことでより良い自分に成長していくための糧となる。悲しみや苦しみは夜明け前の暗闇のように、その先に光へと転じていく希望があるからこそ芸術的なのだ。

だがもし光を描かないまま不幸を美化した場合、つまり、悲しみそのものを美しいものとして肯定的に捉えてしまった場合、その美意識は不幸な未来を叶える「運命の設計図」となってその人の心に入り込んでしまう。

 

僕の少年時代から青年期に至るまでを振り返ってみて思うが、悲しみや苦しみといった忍耐を要することは多々あった。それはほかの人に比べて特別に多いというわけでもないだろう。だが違いがあるとしたら、その忍耐の先に成功体験を作り出した経験がかなり少なかったように思う。忍耐の時を超えた後に成功を掴むという発想がなかったのだ。その根底にはやはり「運命の設計図」の問題があったのだと思う。

乗り越えた苦難の時期は幾度とあったが、希望に向かっているという感覚はなく、ただ耐えてなんとかやり過ごすといった感じだろうか。とにかくどんなに苦しくても天や人を呪うことなく、愚痴らず、腐らず、受難の中であってもめげずに生きることが立派な態度だと思っていた。それを自分の美意識としていたのだ。

たしかに立派な精神態度のようにも見えるのだが、真実を掘り起こすなら、実はこれは美意識でもなんでもなく、ガッツがない自分を肯定するために無意識に作り上げた「一見美しげな物語」であって、頑張らない言い訳に過ぎない。つまるところ僕が美意識として掴んでいた論理構成は「不幸への設計図」だったのだ。

 

苦難に耐え忍んでいる美しい(と思っているのは本人だけかもしれないが)自分に酔いしれ、満足し、それ以上の発展はなく、誰一人幸せに到達できない。

この設計図が根底にプログラミングされているため、いつまでたっても、どんなシチュエーションであろうとも、最後は「耐えて終わり」。そして「めげずに生きる立派な自分」になるために、再び「何かに害されている自分」というシチュエーションに向かってせっせと不幸の種を蒔き始めるのだ。

不幸の種とは不幸に結びくであろうそもそもの原因だ。恋愛面での不幸の種としては相手選びの間違いであろうし、経済的な不幸の種としては収入に釣り合わない散財、健康面の不幸の種としては分限をわきまえない暴飲暴食や、生活習慣に応じた休養・運動などの配慮の不足といったところだろうか。

分析してみると中々恐ろしい症状だなと思うのだけれども、からくりが分かってしまえばなんてことはない。何度も同じような不幸を引き寄せる原因となっている悪しき設計図を善き設計図へと書き換えれば不幸は繰り返されない。これを宗教的な言い方で「カルマの崩壊」という。

カルマとは傾向性のことで、何度も繰り返すパターンを指す。

 カルマ(業)ってどういう意味?【霊的世界のほんとうの話】 | 幸福の科学 HAPPY SCIENCE 公式サイト

ある日本映画が独裁者の心に宿した設計図

何度も繰り返すパターンで思い浮かぶ作品としては「男はつらいよ」がその最たる代表作ではなかろうか。渥美清が演じる車寅次郎こと寅さんが旅先で出会ったヒロインに恋をしてフラれるというパターンが毎度続くのだが、僕はこのシリーズが昔から大好きだった。

作品自体素晴らしいコメディでとてもおすすめしたいところなのだが、先に述べた心理パターンの観点からすると、毎回失恋する寅さんを見続けているうちに不幸な設計図を図らずも心にインプットしてしまう可能性もある。寅さんの名誉に誓って言うが、「男はつらいよ」シリーズは素晴らしい作品だ。問題なのはそれを見る人間の心にもともと潜んでいる美意識のあり方であろう。旅先の美しい景色の中で描かれる不器用な男の片思いは、失恋で傷を負った人にとって深い慰めとなる。傷を癒され再び前向きに立ち上がることができれば良いのだが、人によっては「癒し」そのものの甘さに味をしめ、「傷ついて癒される幸せ」を美しいものとして潜在意識に刻印してしまう場合もあるだろう。その場合癒されることが目的地=幸福になってしまう。本当であれば、癒されて再び立ち上がって、理想をつかむことが目的地=幸福になるべきなのに。

要は見る人の考え方によっては「混ぜるな危険」といえる組み合わせが成立しうるということだ。

傷ついた人間にとってまず必要なのは「癒し」であり、それは苦しみや悲しみのなかに沈み込んでいこうとする心にブレーキをかけることでもあると思う。しかし、そこで満足せずに、勇気をもって本当の幸せに向かって再び立ち上がっていかなければ、その先には哀れみや同情を請い続けるような人生しか現れてこないだろう。

時には耐え忍ぶことも大事だが、忍耐の先に理想を実現して幸せになっている自己イメージをしっかりと持っていないと、いつの間にか幸せの方向性を間違えて、不幸なのに「よかった」などと口走ることになりかねない。

身をもって学ばせてもらった心の法則だ。大切にしたい。

 

寅さんといえば意外な事実だが、今は亡き金正日も「男はつらいよ」シリーズの大ファンだったらしい。風の吹くまま気の向くままに旅をし、恋を重ねる寅さんや、その周りに現れる勤勉で平和な人たちを通して見る日本は、かの国の独裁者からはどのように見えていたのだろうか。

寅次郎の住む国には愛と自由と平和が当たり前のようにある。家族が団らんし、人々が笑顔を交わし、たくさんの出会いが新しい恋の物語を豊かに実らせて感動を生み出している。

そんな、まるでおとぎ話のような美しい世界に、実は憧れを抱いていたのではないだろうか。

 

男はつらいよ」によって独裁者の心に宿された運命の設計図は、それとは矛盾する自分自身を滅ぼし、彼の作った独裁国家を今まさに崩壊させようとしているのかもしれない。

そのあとに現れる世界が、愛と自由と平和によって支えられ、人々が心に描いた夢に向かってのびのびと努力できるような幸福な未来であってほしいと心から願うものだ。

 

なりたい自分に近づいていけること。こうして人に伝える文章を自由に作れることはかけがえのない幸福だ。この幸福は一つ隣の国では喉から手が出る程に求められている尊いものであり、抑圧の中を生きる人たちにとっては、生きる希望そのものなのだと思う。

僕は自分の紡ぎだす思想や物語によって、人間の生きる希望を作り出したい。

自分自身が長いあいだ苦しみ続けた幸福になれない悲しみを昇華し、たくさんの人たちの生きる喜びとともに夜明けの光を浴びる。そんな美しい物語こそ、神仏が望まれる運命の設計図なのではないだろうか。

 

子供のころ、あまり言うことのなかったわがままを今こそ貫こうじゃないか。