心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活において起きる心の変化や動きをスケッチしています。心の変化後に起きる現実の変化や奇跡といった結果よりも、「どういう心の変化がきっかけで自己変革をできたのか」という原因にフォーカスした描写を試みつつ、あれこれ自由に綴っています。要は信仰に基づく自己変革の実況中継と日々のあれこれです。

霊能力と信仰心

宗教団体に所属し、布教活動をしたり、宗教組織の中で修行をしていると霊的な世界を求める人との出会いが増える。中には霊感が鋭敏な人や、修行によって法力を備えた霊能者にご縁を頂くこともある。

幸福の科学支部や精舎に出入りし、宗教活動をするようになってから7年程の間に出会った霊的な人達を見ていて強く思うようになったことを書いておこうと思う。

霊的であることと信仰心の深さにはあまり相関関係がない。

霊感のあるなし、あるいはその強弱は人それぞれだが、それは一つの認識力に過ぎない。

「信じる」という行為は認識することではない。

認識の外にある未知の領域を受け入れる態度を「信じる」というのであって、自分の認識力に頼った納得や理解といった判断は信仰行為ではない。

いくら霊的であったとしてもそうした姿は「見えないものは信じない」と言っている唯物論者と変わらないのだ。

 

かつて縁のあった青年で、霊感がかなり強く、オーラが見えたり霊的存在の声が聞こえたりする男性がいたのだが、残念ながら彼からは信仰心が全く感じられなかった。

優しさと正義感と行動力があり、頼りがいのある好青年だった。

子供の頃から霊が見えていたこともあり、霊的な学びや修行を重ねてきたらしい。その探究心、悟りを求める心と実践していく意思の強さは尊敬に値するものだった。

彼は宗教には良いものも悪いものもあるため、盲目的に信じるのではなく、実証によってその良し悪しを判断する姿勢を持っていた。

自分が培ってきた知性や霊的感性をフィルターとし、認識できないもの、確認が取れないもの、証明がなされないものは受入れないという態度を一貫して取り続けていた。

幸福の科学には病気治しの修法があるのだが、彼が風邪を引いたときなどは、「修法を試してみて実際に治ったら信じる」などという事を言っていた。

一事が万事そんな感じで、「信じる」という態度を優先することはなく、自分の認識力に頼った確認作業を修行として取り違え、信仰を掴むことができていなかった。

あるとき「久々に会いたい」と彼から連絡をもらって会ってみたら、いつの間にか幸福の科学を誹謗する側になっていた。

 ネットワークビジネスに手を出し、統合失調症になり、ダークサイドのビジネスにも手を出したとか話していた。

救ってほしいのかと思いきや救済団体である幸福の科学を誹謗し、救世主である私たちの主を偽物呼ばわりするありさまで、かつての好青年の姿はどこにもなかった。

 

自分の積み重ねてきた努力精進や霊的な資質と豊富な知見といった、人生経験で得た実りが沢山あったのに、その優秀さに溺れ、「信じる」という素朴な美徳を失ってしまったが為に青年はその実りを腐らせてしまった。

 
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超能力や霊能力は実際に存在する。能力までいかなくとも体質的に霊的な感性が鋭敏な人もいる。

そうした人達であっても霊的世界の全てを知ることはできないし、その認識力にも人それぞれに当然限りがある。

だからこそ信仰対象である神仏の肩の上に乗せていただき、小さく幼い自分では見ることができなかった遠くの景色を見させて頂く心が大切なのだと思う。

 

これまでの経験、努力によってどんなに智慧を蓄えていようとも、どんなに実績、実力を備えようとも、自分よりも優れたる存在を素直に尊び、頭を垂れることができてこそ、その実りは本物の恵みとして祝福されるのだ。

 

霊的な能力や感性に恵まれずとも、信じることのできる人こそ美しい。

霊的な感性がないことにコンプレックスを持つ必要はあまりないと僕は思う。

だからこそ信じる機会に数多く恵まれ、信仰心を深めていくことができるのだ。

支部に行くたびに思うが、幸福の科学に集っている人たちの多くはそうした純粋な美しさに恵まれている。

僕もまた、そうありたいと心から願う。

 

自分の実らせんとしている稲穂が天使たちの祝福を受け、収穫のときを迎え、やがて多くの人たちの魂の糧として恵みをもたらしていく。

そんなビジョンを描き続けよう。