心のスケッチ  佐々木大記

真理探求の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学を現在制作中。近々電子書籍で第一話を発表予定。(2019.09.27)

初夢を分析するに

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僕は人のいない山のふもとの小さな寒村を一人きりでテケテケと走っていた。

そういえばこの夢は最初から最後まで、誰にも会うことがなかった。人がいない寂しい村は今思えば自分の心を表していたのかもしれない。

夢の中で僕は子供だったような気がする。

村の家々が立ち並ぶ道をジグザグに一人で遊ぶように走っていたのだが、ふと山の方が気になりだし、登ってみることにした。

山の中腹まで登ってみたもののそこから先はあまりにも険しい絶壁になっていて、登った先の景色は一切見えず、登り切ることなんて絶対にできないように見えた。と同時に、その先に行けば同じ年頃の友達数人が待ってくれているようにも感じた。子供のころ、僕だけが山を登り切れずにみんなについていくことができなくて取り残されてしまったシチュエーションがあったような気がして(それは夢の中の過去設定で、現実にはそのような思い出はない)あの時の友達に会えるような気がしたのだ。

僕は、今の自分は諦めない自分であることを心の中で確認して先の見えない山頂に向かって足を進めた。その瞬間一つの手が差し伸べられて真っ白な光のなかに引き上げられたところで夢は終わった。

 

この夢の情景が自分の心を現しているとしたら、登りきることができないように見えていた山は僕がこれまで越えてこなかった自分の境界線で、今その先の世界に行こうとしているのかもしれない。

今までいた世界は静かな誰もいない自分だけの小さな遊び場で、そこに自分で越えられないと決め付けた山をつくり、一人で閉じこもっていた。

僕の人生はこれまでたくさんの人との出会いに恵まれてきたのだが、心のなかには決して誰一人としてそのなかに入ることを許さない閉ざされた広大な領域を持っていた。

そうか、自分だけが山を登り切れずに皆についていけなかったのは、ほかの皆と同じようにふるまうことができずにいた子供時代に、徐々に心を閉ざしていった過去を象徴しているのか。夢の中の設定はとにかく傾斜の厳しい山で、登ることもそこから降りて僕のいた村に入ってくることも許されないような環境だったけど、結局それは自分の閉ざした心の壁が作り出していた山だったのか。だとしたら我ながら随分険しい山を作ったもんだ。

だんだん意味が腹に落ちて理解できてきた。

そして「理解できた」ということはもうその壁はなくなったということなのか、或いはなくなろうとしているのか。

そういえばこの夢から覚めた昨日1月2日、仕事中にフィリピン人の女性に急に話しかけられて30分位談笑していたけど、これも心が開いたからなのかも。

「息子がバスで来るノ待ちながら道路ノ向こうから見てて寒いノニずっト立っテ外で仕事しテえらいなーと思っテタノ。だから話しかけようト思っタノ。この仕事長い?何歳?」みたいな。まるで夢の中みたいな不思議な出会いだった。

 

もし分析の通りだとしたら、これからもっといろんな人とオープンに付き合っていけるようになるのかも。閑散としていた誰もいない村にも人が遊びに来てくれるのかもしれないし(笑)或いはもっと広い世界に自分が飛び出していくのかもしれない。

分析が違ったとしても悪い夢ではなかったし、初夢としては上出来ではないだろうか。

 

なぜこれまでかたくなに閉ざしていた心を開くことができたのだろうか。

閉ざした心の中にはなにがあったのだろう。

もしかしたら、オープンにできずにいた本当の自分を、この場を通して表に現し始めたからなのかもしれない。

自己表現をすればするほどに心の扉は開かれていく。その険しく見えている思い込みの絶壁は崩れ去り、離れ離れになっていた友人たちと心の再会をし、心の底から分かち合うときが訪れる。

なんかそんな気がする。

 

にしても、

昨日話しかけてきたフィリピンの女性は綺麗でいい人だった。

最近フィリピン人と仲良くなる傾向がある。日本人よりもああいう明るくてオープンな雰囲気が自分には合うのかもしれない。

2018年は心の扉をもっともっと開いていこう。と同時に秘密の領域も充実させていきたい。

 

そういえば、フィリピン人のほかにもちょっと変わった出会いがあった。

高速バスの荷物を降ろして渡す仕事で、本人のものか分からない荷物があったので少しの間待ってもらったお客さんがいたのだが、その対応が気に入らなかったようでかなりきつい態度で念攻撃を仕向けられた。鋭く強く差してくるような念でなかなか危なかったが、なんとか処理できたので良かった。

フィリピン人の女性にしろこの人にしろ今までにない近い距離感覚の心の交流ではあったので、たぶん形は違えど同じ心の変化によって起こった現象だったのだと思う。

自分にとって好ましい出会いの訪れだけを増やしていけるのであればとても嬉しいけれど、たぶんそうはいかないような気がしている。

きついタイプの出会いに対しても拒むことなく受け止めてあげる度量をこれから増していってこそ、より豊かで救済力のある自分を作っていけるのだし、魂の成長のためにもそうあるべきだろう。

 

ちなみに念攻撃に対する処理は、(すべてその人がいなくなってからの処置だが)

正心法語、守護指導霊への祈り、主への祈り(すべて幸福の科学の経文)をその場でそらんじて、あとは閃くままにイメージを描いた。

まず、念攻撃を仕向けてきた相手に対してはその人を傷ついた幼い子供の姿にし、優しく抱き留めるようなイメージ。

仕向けられた念攻撃に対しては避けるでも跳ね返すのでもなく全部受け止めて許すイメージ。

自分自身に対しては1m70cmの見た目の自己像ではなく、その足元から根を張って地球と一体になっている巨大な生命体の一部としての自己イメージを作り、すべては過ぎ去

っていき、消えていく過去として目の前のネガティブな思念が大きな川の流れに押し流されていくイメージ。

しばらくの間怒りの思念がちらついてはいたが大きく影響を受けることはなく、無事に今年の初仕事を終了できた。

 

なかなか強烈な2つの出会いではあったが、自分の心ひとつでどちらも愛の思い出に変えていけるのだと思う。

とはいえもう一度会うなら美人で優しいフィリピン人に決まっているのだ。

良き出来事だけを繰り返し思い出して、きついやつはあまり考えないようにしていると、同時期の出来事であっても心の距離は違っていく。

心を明るく幸せな思いでどんどん満たしていける僕は幸せ者である。