心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活において起きる心の変化や動きをスケッチしています。心の変化後に起きる現実の変化や奇跡といった結果よりも、「どういう心の変化がきっかけで自己変革をできたのか」という原因にフォーカスした描写を試みつつ、あれこれ自由に綴っています。要は信仰に基づく自己変革の実況中継と日々のあれこれです。

今幸福であること感じる

最近自分がきゅうくつに感じる。

と自覚できたってことは、きゅうくつを辞めれるのか。

 

頑張らなくちゃいけないのである、ていうような観念で自分を縛り付けていた。

と自覚できたってことは、縛りから解き放つことができるのか。。

 

自分の人生なんだから人生の支配者として好きに生きればいいじゃないか。

そんなふうに思えたのだ。

 

会社。

家族。

友達。

目に見える景色。

関わっているすべてが自分の人生の中にあって、それらの要素は何一つとして自分を縛り付けたり、こうしろああしろと要求してはいない。

それなのに、それらの関係性の中では”こうあるべきだ”と勝手に規定した「良い子」に仕立て上げようとしている。

 

いつも皆に見られている自分は”こういうことをする良い子”でなくてはいけないから頑張ろう。

いつも皆に見られている自分は”こういうことをしたら悪い子”になってしまうから、がまんしよう。

 

こんな思考パターンに基づいて物事のやるやらないを判断してきたんだと思う。

 

「自分が本心から喜べることはこれだから、これをやるんだ」ていうモチベーションによって意思決定を下してはいけないと、勝手に思い込んでブレーキばかり踏んできた。

アクセルを踏むときも、いちいち自分を納得させる理屈を探してみたり、常に正解不正解の選択に迫られているような気持になっていた。

 

自由にのびのびと生きているつもりだったんだけど、どうやらそうでもなかったみたいだ。

 

読書一つとっても、読書そのものを楽しむ心を失いかけていた。

読書を通して何らかの新しい発見や、学びを得て、未来に生かそうといつも考えていた。読書それ自体が楽しいってことを忘れて、常に何か自分にプラスになるような見返りを得ようとして、緊張していたんじゃないだろうか。

祈りの時間も同じく、祈りの時間そのものから得られる喜びの心、天上界と意識を通わせることそのものに伴う幸せな気持ちを、受け取ろうともせずに、与えられていないものばかり求めることに必死になっていたんじゃないだろうか。

 

学ぶことそのものを喜び、

努力することそのものを喜び、

克服していくことそのものを喜んで生きて良い。

 

”これこそが理想の形”と決めつけた結果が出なければ喜ぶことが出来ない人生は、せまい。

思いがけない出会い、思いがけない発見、思いがけない成長、思いがけない経験を楽しめるってことは、多くの恵みに気づけるってことで、それだけ豊かな人生を可能にするってことだ。

 

もっと自分を喜ばせよう。

今与えられている恵みを遠慮なく受け取って、存分に幸福感に浸って良い。分け与えることのできる豊かな人になろう。

もっと自分を幸福にする努力をしよう。