心のスケッチ  佐々木大記

真理探求の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学を現在制作中。近々電子書籍で第一話を発表予定。(2019.09.27)

情熱を開発するための4つのポイント

情熱に突き動かされていた9年前

2009年にもブログをやっていた。

そのころは政治に関する記事をほぼ毎日更新していた。

最初は政治なんて関係なく、今日はどんな弁当を作っただとか、育ててる植物の花が咲いただとか、借金の返済状況だとか、(そうそう、借金の返済状況を毎日配信するというテーマがあったのだった)生活にまつわるあれこれを適当に綴っていたのだが、幸福実現党の初の選挙活動が活発化していくにつれて、いつの間にか政治問題がメインのブログになっていた。

政治や経済について当時知識がない状態ではあったものの、幸福の科学から週一ペースで政治関連の書籍も発刊されていたため、知識はそこからどんどん吸収しつつ、ブログを通して自分なりに思う所を毎日発信していたら、急激に政治経済についての脳みそが開発されていったことを覚えている。

アクセス件数も毎日100から200件程度になって、今に比べたらそれなりの形が出来上がっていたように思う。

 

当時幸福の科学との繋がりは皆無に等しく、経典と経文とザ・リバティとネットで得る情報だけで自発的に情報発信をしていた。

パソコンも所持していなかったので、ガラケーだけで毎日更新していたけど、今思えば結構な情熱だったなと思う。

あの頃は自分自身を力強く突き動かすエネルギーの源泉のようなものと直結していたような気がする。それは、良くも悪くも感情的で、使命感や義憤に駆られる気持ちや、自分の中に宿されている愛国心であり、責任感にも似たようなものであった。そうしたものに突き動かされるように文章を綴っていた。

アクセス件数を伸ばすための方法論も多々あり、そうしたものを学んで活用することも大事だなーと思うのだが、そもそもの「何を伝えて、どういう影響を及ぼしていかなくてはならないのか」という自分自身を突き動かしていく情熱に変換しうる「大儀」が思いの中心に宿されていなかったら、いかなる活動も活発になっていくことはないだろう。

人間は磁石のようなものであり、熱意が一定の高まりに達していくと、それに伴う様々な物事やアイデアが引き寄せられてくる。自分自身をいかなる磁石に変えていくかということが、物事を普通ならざるものへと誘っていくうえで大事なポイントになる。

9年の歳月を経て再び外に向かって発信し始めているが、熱量としては当時にまだまだ劣っている。個人的な話がメインとなっているため、あまり使命感に繋げられていないとか、取り組みそのものを存分に楽しめていないとか、いろいろ原因は考えられるが、創造力の元となる情熱の高め方について考えた結果、気づいたポイントがいくつかあったので、以下にまとめておく。

 

①創造の時間へ深く没入する

ブログに限った話ではないのだが、今やっている或いはやろうとしているあらゆる取り組みに対して、当時のような情熱変換システムを自分の中に宿すことが今要されている。ただ、当時のように、政治や社会に対する感情的な思いを元手として情報発信の熱意に変えていくのは何か違うかなーと思っている。

発明家や研究者が時が経つのも忘れて、創造の時間に没入していくような感じが自分には最も適しているんだと思う。

戦争当時の逸話として、ある学者が戦争が起きていることに気づきもせずに自分の研究に没頭していたというような話があったと記憶している。

発明家のエジソンに至っては発明に集中するあまり自分の妻が誰なのかも忘れてしまい、差し入れか何かを持ってきた妻に向かって「君は誰だ」と質問したという話も残っている。

僕自身そういう異常性のあるエピソードに対して親和性をもの凄く感じてしまうのだ。

昨日の記事にも書いたような、探求そのもの、創造そのものを喜びとして、真実なるものや、美しいものをひたすら追いかける異常な世界に参入していくのが、創造の世界に生きる人間にとって最も自然な道なのかもしれない。

多動性障害の話を記事にしたが、余計なものが何も見えなくなっていくような境地に入っていかないと、おそらく僕の望む形は現れてこないだろう。

「ハチは暗闇の中で蜜をつくる」という言葉があるが、そのとおりで、一定の孤独な状態を作り出さないと、自分の世界に深く入っていくことはとても難しいのだと思う。

②孤独な時間の中で心を磁化させる

他人との関わりの毎日が続いていくと、気が付かないうちに他人の意見や考え方や、集団心理に強い影響を受けて、自分の心が自分独自のものとはかけ離れたものになっていく。日々瞬間瞬間に様々なことを自由に思考できているつもりが、実はそもそもの考え方、思考パターンのなかに、一定の傾向が組み込んであり、それに基づいてあらゆる思考や発想を繰り返しているのが人間の心の真実であると思う。

毎日目に触れる様々な情報や、耳にする人の言葉によってだんだんに思考パターンと言えるものがプログラムされていくのだと思うが、その潜在意識にどんな意識を組み込むかということに注目する人はあまりいない。

今、幸いなことに、仕事は一人で完結するような仕事であり、プライベートな時間においても、特定の人との関りを持っているわけでもない。極めて孤独な状態を作り出すことが出来ている。それは、意識的にそういう状態を作った訳ではないのだが、よくよく考えてもみれば、9年前自らの情熱一つで勤勉に情報発信を続けていた当時の状況によく似ている。

したがって創造の世界に没入していくにはとても良い環境にあると考えられる。

幸福の科学の経典『創造の法 』には、インスピレーションを受け取る条件の一つとして、先ほど載せた言葉が紹介されている。

 

カーライルという十九世紀の思想家が「ハチは暗闇の中で蜜をつくる。脳は沈黙の中で思想をつくり出す」という言葉を残している。

時々「孤独な時間」を取らないと”蜜”をつくることはできない。

沈黙の時間、聖黙の時間は絶対にいる。

情報収集だけではなく情報遮断が必要である。

 

というようなことが説かれているが、ここでいう「情報」とは、単にネットやテレビや雑誌などから得る知識だけではなく、日々の生活の中で自分の思考に影響を及ぼしている、他人の言葉や意見や考え方や、集団心理をも含めて「情報」と考えた方が適切なように感じられる。

心のなかに流し込むあらゆる「情報」との付き合い方によって、潜在意識は醸成され、思考パターンが徐々に確立され、行動原理に転換されていく。

自分の思考パターンの在り方を理想に適したものに作り替えていくには、孤独の時間=他人の影響を受けない情報遮断の時間、がどうしても必要なのだと思う。

そして、日常で関わる他人ではなく、理想とすべき過去の偉人や現代の成功者の思想に学び、親しみ、心を感応させ、自分自身を同質化し、孤独な時間の中で独自の心の磁石を作り上げていく努力が必要なのだ。

③創造そのものの喜びを掘り起こす

あらゆる人に良き影響を与えうるあらゆる活動をしていきたい。そのためにはたくさんの人の目に触れるための「出し方」の技術を習得することも大事な課題なのだが、創造の出発点として、自分自身の抑えがたい熱意や、伝えたいという強い感動といった創造のエネルギーの「引き出し方」を意識しないと、手先の器用さだけに頼ることになりかねない。

これはMITメディアラボ 伊藤穣一所長の著書9プリンシプルズの中にある原理の一つ「プッシュよりプル」に通じる部分でもあるのかもしれない。

ともすれば人間は結果を重視するあまり、そのプロセスや原点を見失いがちなものである。自分自身もまた手っ取り早く成功したいと願う欲深い人間の一人である。

しかしながら、人間の本質は姿形なき心であり、物質的に認識できる肉体は”見てくれ”に過ぎない。

エチケットとして見てくれを整える礼儀も大切であるし、見てくれの演出によって注目を集めるテクニックも有効だとは思うが、本質を見失って奇抜さやテクニックだけに頼って、中身の薄い、形だけの創造に陥った場合、創造力の源泉である情熱はやがて失われていき、求めていたはずの結果も出せなくなっていくのは必定だろう。

特に僕のような似非多動性の人間にとって深く創造の世界に入っていくためにはそれだけの強い衝動が必要になる。それは、理屈的な頭でつくり出した理想の形ではなく、自分を突き動かそうとする抑えきれない情緒であり、本能的に宿されている性欲のようなものなのかもしれない。

ナポレオン・ヒルは性衝動を創造力に転換することで成功を収めることが出来るというようなことを著書『思考は現実化する』の中で説いているが、これは何を意味しているかというと、「人間は喜び故に行動する」ということなのだと思う。

創造そのものに伴う喜びを感じる感性を刺激することで、理屈を超えた動機を本能に植え付ける、というか、本能の中から掘り起こすことで、創造力を開花させることが出来るのだと思う。

自分自身にノルマのような目標を課したり、義務感によって努力を強要するのではなく、喜び、幸福感によって絶えることのない意欲を引き出し、突き動かすのだ。

やってもやっても結果を得られないことに落胆するのではなく、取り組んでいる物事を振り返りながら、取り組んでいること自体に伴う喜びや楽しさを最大限に掘り起こすことで、さらなる喜びを求めて一層取り組みに没入していく。

そういう新しい幸福の掴み方を、僕は今開発していこうとしているのだと思う。

④今この瞬間を愛するという成功を掴む

この喜びや幸福感は、結果に伴う喜びや幸福感ではないため、結果の在り方に影響を受けるものではなく、プロセスやその動機となる志によって高めていくことできる。つまり、自分で調整することが可能な喜びであり、幸福感であると考えられる。

結果の在り方に依存した喜びや幸福感というものは、良い結果が出るまで、或いは予見されるまでは得られないものとなる。昨日の記事に書いた通りそれは、せまい人生であり、道の途次に数多く用意されている恵みを無視するようなものである。

行為そのものに喜びがあり、結果というものは余韻であり、次につながる副産物という位に考えた方が良いのかもしれない。

結果ばかりを求めるあまり、行為の中に及ぶ喜びを感じようともせずにさっさと終わらせようとするのは勿体ないことである。

人間は今この瞬間しか生きることができない。

イエス・キリストは「一日の苦労は一日にて足れり」一日を一生として、まだ来ない未来や過去の不幸に患うなと説いている。

刹那的に「今さえ良ければそれで良い」というような考え方をするのはただの自暴自棄でしかないが、そうではなく高次な理想に向かう途次として生きている「今」を存分に楽しむことは道徳的にも優れた考え方であり、それは自分の意志によって自由にできることでもある。

未来の為に今を犠牲にするのではなく、未来に向かって生き続ける今を愛し、その喜びの連なりによって人生を埋め尽くしていくことで、永遠の努力という成功を手にすることが出来るのだと思う。

「永遠の努力」という言葉が出て来たので、最後にこの言葉が説かれている幸福の科学の経典『成功の法』の一節を紹介しておきたい。

 

成功とは、永遠の向上である。

成功とは、永遠の発展である。

成功とは、永遠の情熱である。

成功とは、永遠の勇気である。

成功とは、永遠の努力である。

成功とは、永遠の価値である。

 

また、この節には、

「成功とはまず、自分として可能な、身近なところから成功を収めていかなければならない」

というようなことも説かれている。

身近な成功とは、まさに今取り組んでいる事そのものから喜びを獲得することを指しているのかもしれない。

 

 

意外と深く没入してしまい長文になってしまったが、思いのたけをこうして表現できる場があることに心から感謝したい。

この幸せがいつまでも続き、大きくなっていきますように。