心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活において起きる心の変化や動きをスケッチしています。心の変化後に起きる現実の変化や奇跡といった結果よりも、「どういう心の変化がきっかけで自己変革をできたのか」という原因にフォーカスした描写を試みつつ、あれこれ自由に綴っています。要は信仰に基づく自己変革の実況中継と日々のあれこれです。

信じる心と許す心についての探求

信じることと許すことは似ている。

どちらも知恵による分別や判断ではなく、愛することであり、自分自身を与えること、明け渡すこと。

 

明け渡さなくてはならない。

明け渡されることで人は自分が愛されたことを知り、心を開く。

 

今までどれだけ人を信じ、どれだけ人を許したことがあっただろうか。

どれだけ与え、どれだけ明け渡すことがあっただろうか。

 

信じずに疑い、許さずに裁き、与えることなく欲し、奪われることを恐れ、閉ざされた鉄壁の金庫にしまい込んだ心があったんじゃないだろうか。

 

他の人を疑うとき、裁いているとき、心がささくれ立つような嫌な気持ちになる。

嫌な気持ちでいることは不幸である。

不幸であることをやめたければ、信じる心、許しの心を取り戻すことだ。

 

仏への愛によって人を信じ、

仏の愛によって人を許そう。

信じるならば、疑う心を手放そう。

許すのであれば、裁く心を手放そう。

真なる知恵は疑わず、信じる道を切り開く。

真なる知恵は裁かずに、許す道を切り開く。

真なる知恵は中道に至る愛他の知。

疑い裁きは保身の知であり外道に至る知の病。

知の病を「癡」と言い、仏陀はこれを愚かさと説き、仏性の敵であると明かされた。

保身による疑い心、裁き心からの束縛、とらわれを、真なる知恵によって見破ることを破邪顕正という。

保身に基づくものの見方、考え方は、自己中心的な見解、自分にとって都合のいい見解を論理的につくり出す。これを「我見」という。

信じる心、許す心を失っているのは、我見によって疑い、裁く心にとらわれているからではないか。

我見を去り、中道に入らなければならない。

中道とは天上界にいたころのとらわれのない心。

愛の心、無私の心、仏の心に至る道。

真理への道。

疑い心、裁き心によって作り上げた善悪は真理ではない。

愛の心、無私の心、仏の心によって真理を知ってこそ、真に悪を去り、善を推し進めることができる。

真理は人を自由にする。

自らのとらわれを取り去り、他の人のとらわれをも取り去る。

信じる心、許しの心を日々に養っているか常々省みていなければ、簡単に我見に溺れ、保身のために悟りを偽り、仏の言葉を自らを正当化するための盾にし、また他の人を裁く刃にし、縛り付ける鎖としてしまうだろう。

 

他人を害し自己をも滅ぼす保身へのこだわりを手放すことで、金庫に固く閉ざしていた愛は解放され自由になる。

愛することを恐れてはいけない。

恐れることなく、愛して良いのだ。

 

愛他の自由をこそ求めよう。

他の人を疑っているとき、裁いているとき、信じる自由、許す自由を失っていることに気づける自分でありたい。