心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活の日々に思うことを綴ります

繁栄と許し

2月くらいからだろうか、「経済繁栄のための祈り」を毎日思いを込めて祈っている。

より多くを学んで、成長して、もっと世の中の為に役立っていくために経済力が欲しい。っていうのと、経済的な不安に心を無駄に奪わせないっていう目的。一番大切なことに心を集中させたいのだ。

私利私欲なく、仏神の前で偽りなき心で祈り続けている。

祈っていればある日突然どこからともなくお金が降ってくるなんて思っていない。

そういうパターンもあるのかもしれないし、そういう奇跡的な収入の引き寄せの話はよく耳にする。

凄いなと感心させられるのだが、求めているのはそのような現象の「形」ではなく、「豊かな心の在り方」そのものだと思う。今現在の経済力を言い訳にせず、豊かな心を育む姿勢は大事だと思う。

 

 

 

一昔前まで僕は、口先ではこの経文の通りに祈りながら、その趣旨とは異なる想いでこの祈りを行っていた。

 

ただ単にお金が欲しい。

個人的欲求として、生活が楽になれば嬉しい。

そしたらもっと修行します。

 

みたいな。

 

表面意識的にはもっと真摯に祈っているつもりだったけど、今振り返ると、心の外面だけ整えて、奥の方では「努力せずに儲けたい」っていう気持ちや、「面倒なことは避けつつ豊かに」なんて気持ちがあった。

そういう引き寄せもあり得るんだろうけど、その結果として魂としての成長が残らないのであれば、その引き寄せは霊的には後退を意味する。

「豊かになったら頑張れる」なんて言い訳がましい考え方を助長するような引き寄せは喜ばしいものではない。

ゆえに、祈りの日々においては結果を焦らずに、与えられる豊かさに相応しい心を形成していく自助努力の姿勢を大切にしたい。

 

ここ数回アップしている記事の共通テーマとして、「許し」が続いているようだが、これこそが繁栄のために必要な心なのではないかと思い始めている。

許しを学ぶことによって、繁栄の心を掴めという指導なのかもしれない。

 

貧乏神的な考え方の代表的なものとして、「被害者意識」がある。

「自分が貧しいのは人のせい、社会のせいで、自分は悪くない」

っていういわゆる左翼型の他罰的な考え方だ。

自分に対する反省がなかなかできず、他の人を責める傾向は誰にでもあるものだと思う。

心の教えを学んでいる僕であってもそうで、いや、むしろ学びを深めるほどに、善悪の違いがはっきり分かってくるため、裁く傾向は強くなるのかもしれない。

だからこそ、許しの心を努力して耕していかないと、知識を増やしていくほどに心が狭く貧しくなっていく可能性はある。

そう、「許せない心」って結局のところ「心の貧しさ」なんだよな。

ん?

経済的に豊かになることを許さない心がもしかしたらあるのでは。

 

経済的に潤った状況と、貧しい状況、両方経験したことがあるけど、お金がある時の方が、心に余裕があって、小さいことに目くじら立てることもなかった。

それって全然悪いことじゃない。

お金で心を整えるっていう考え方も「あり」にすれば良いのか。

少なくとも今までは「あり」とは思ってなかったな。

これはこれで一歩前進したかも。

 

 

 

ともあれ、

許しの悟り。

慈悲。

まだまだ深く探求は続く。

現在対決中です。