心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

学習と自己変革について

先生の御説法を本会場の東京正心館で拝聴した。

本会場での参加には結構なお金が必要なので、余裕のない今は無理かなと思いもしたのだが、

・現状維持で本会場あきらめる

っていうカードと

・自己変革して豊かになって本会場参加

っていうカード、どっちが良い?

って誰かに聞かれた気がして参加することにしたのだった。

それから収入を増やすための仕事をなんとか見つけ出し、月収を5万円位増やして今回の説法に漕ぎ着くことができた。

自己変革というには少しスケールが小さく感じるけど、積小為大の一片と考えれば、なかなか良いスケール感で一つ積み重ねることに成功できたのかもしれない。

別に強要されているわけではいけれど、今以上の自分を目指すきっかけを頂いているのだと考えれば、やはりありがたいことで、振り返ってみれば「やればできる」っていうシンプルな真実を毎回学ばせて頂いているのだなと思える。

何か目標を突き付けられるときに「厳しい」と感じる自分は、惰性に引きずられようとしている昨日までの弱い自分であって、可能性に目覚めた今日からの自分にとって、それは「厳しさ」ではなく「愛」なのだと言い聞かせたい。

 

生涯を通して成長していく希望がここにはある。

挫折感と劣等感でいっぱいになり、人生に希望を見いだせずに苦しんでいた自分であっても、学ぶことで立ち直って人生を豊かで希望あるものに変えることができた。

10年前の自分にしてみれば、考え難い変化が今の自分に及んでいるのだが、幸福の科学との再会なくしてこの変化は考えられないものだった。

「学習」というものにさほど意欲を見いだせないまま学生時代を終えた自分が、こんなに何かを自らの意思で学ぶ時期がこようとは思ってもみなかった。

そして、学び続けるうちに、学習というものは人間の本能として備わっているものなんじゃないかと思うようにもなった。

自分を成長させ、善き方向に導く学問との出会いによって、その本能が目覚めるときがあるんじゃないだろうか。

学問の効用として、良い成績を収めることでのちの進学や就職に繋げるということがあると思うが、本来の学問の目的は、生涯に渡ってその人を助ける「学ぶ習慣=学習」という財産に繋がる経験を得ることにあるのだと僕は思う。

学んだことが実際に役に立ったかどうかという利便性も大事ではあるが、それ以上に学習経験そのものが、人間を生涯に渡って成長させる希望に繋がっているのだと思う。

学習の補助輪として教育はあるのだが、やはり最終的には補助輪なしで学習する人間になってこそ一人前と言えるのではないだろうか。

実際の社会の雰囲気としては、卒業して補助輪が外れた後はもう自転車乗りませんっていう感じが普通で、卒業後もプライベートで何かを学び続ける人というのは中々珍しい部類に入るのかもしれない。

僕の場合は補助輪が外れた後しばらく遊び惚けてたような状態から、思い出したように10年前から自転車をこぎだしたような感じだが、補助輪が外れた状態で学びを習慣づけることで、学生時代に得た学習の経験は真の意味で財産に変わったと実感している。

何も学ばずとも立派に社会人として生きていけるかもしれない。だがもし、学習を通した自分自身人生の伸びしろが、可能性が、成長の余地が、まだまだ残された状態であったとしたら、そして、その結果多くの人を幸せにできる未来があるとしたら、その可能性を秘めた教えを学びたいと思わないだろうか。そうした真に価値ある教えこそ、学習の情熱を注ぐべき対象なのに、わずか10数年の学校教育で学びを終えた気になるのは本当に勿体ないことだと思う。

 

 

多くの人は世の中全体の雰囲気だとか、普段付き合う仲間の生き方や考え方によって、自分自身の生活のあり方をそれとなく定めているのだと思うが、今自分自身が選び取っている生活の在り方や人生に対する姿勢というものが、本当に自分の望んでいるものなのか一度疑ってみる価値はあると思う。

他の誰とも違う個性を持って生きている自分という存在に対して、もっと誠実になれる余地はあるんじゃないだろうか。

僕はそういう疑問をいつも持ちながら生きている。

そういう疑問を持つことだけで人生が好転するわけでは決してない。その疑問の答えを出すためには、本当の自分が何を望んで生きようとしているのかを知らなくてはならず、それが分からないままに無軌道にいろんな生き方を試して苦しんだのが、補助輪が外れた後の僕の人生であったと思う(笑)

だがそういう苦しみも、ありがたいことであったと思えるようになった。

身をもって知るべきことを神様は経験としていつも与えて下さっているのだと感じている。

うまくいかない人生の苦しみの連続の果てに、ようやく真実の幸福への道を学ぶ法門が開かれるように、運命は仕組まれているのかもしれない。

 

「苦諦」と言って仏陀が初めて説いた法が、まさに「苦しみ」であった。

この世の中は苦しみが避けられない世界であり、どのような人であっても、誰もがそれぞれにかならず苦しみを経験する世界であるということを、最初に説法したという。それは、世の中がいかに苦しくつらい世界であるかという、絶望的な実態を説明したのではなく、万人が苦しみをきっかけとして、幸福への道に至る真理に出会うことができるという希望を世に解き放ったのだ。

「苦」の教えは単体としてあるのではなく、そのあとに

「集諦」苦しみの原因

「滅諦」煩悩の滅却

「道諦」正しき心の探求

と続き、段階的に苦しみを幸福へと昇華させていく法体系となっている。

苦しみのための苦しみなどというものは決してなく、幸福の前に必ずあるものとして苦しみは存在している。

幸福までの道のりには学習と自己変革が伴うが、実は「幸福」というゴールがあるのではなく、その道のりがすべて幸福であったと悟るために、あらゆる経験が学びを求める者に与えられているのだと思う。

幸福の科学には教育体系が十分に整っていないようにも感じるところがあるが、実はそうではなく、その人に今最も必要な学びの材料として、日々にあらゆる経験が与えられているととらえた方が適切なのだと思う。

与えられる経験の中で揺れ動く自分の心を見つめ、「何を気づけ」と神様はおっしゃっているのだろうか、という視点で一日一日を見つめるうちに、自分が今学ぶべきものがはっきりと浮かんでくる。そして、大川隆法総裁先生が縦横無尽に張り巡らせている膨大な教えに基づいて必要な答えを紐解いていくことができる。

という風に、ある意味霊的で優れたオーダーメイドのカリキュラムが教育体型として組まれているのだと考えている。

教えの幅が多くて、どこから手を付けて良いのか分からなくなったとしても、それは各人の心の苦しみがどこにあるのかがいつも指し示してくれているのだ。

自分の心は今何に対して苦しみを感じているのだろうか。

それを正直にごまかすことなく見つめる態度から、次に自分が辿るべき道は見えて来る。

 

易きに甘んじようとする心、今以上を目指すことを恐れる心と誠実に向き合い続ける自分でありたい。