心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活の日々に思うことを綴ります

2つの種

昨晩は久しぶりに同郷の親友と飲んでいた。

寿司屋の経営者として独立して一年3か月。徐々に売り上げも良くなってきているようで、本当に嬉しい。

経営者という立場に身を置くようになり、人間として経験の厚みがどんどん増してきているのだと思う。身にまとっている雰囲気がとても充実したものになってきていて、とても誇らしい気持ちになる。

同時期に八戸から上京し、違う道のなかでそれぞれに苦労しながらも共に生きて来た、「同志」というか「戦友」のような関係性なのだろうか。

そもそもの縁は小学校からなので30年近い古い縁になる。

上京してから本格的に遊ぶようになって、18年間途切れることなく、飽きることもなく、互いに違う人生を観賞しあうように生きて来た。

彼は板前一筋で道を究め、僕は渡り鳥のように様々な仕事を通して色々な人生を味わった。

彼は結婚して幸せな家庭を築く意思を20代から明確に持っていて、しっかりと婚活をし、25歳で結婚。今では2児のマイホームパパ。

僕は様々に展開していく自分の学びたいことや経験したいことに時間を捧げ続け、家庭を持つ気配もなく、独り身のまま真理探究の道を突き進んでいる。

まったく違った人生の持ち主なのだが、不思議と充実した会話ができてる。それは付き合いの長さに頼ったなれ合いのような関係性ではなく、常に前向きで建設的で、希望の未来を切り開こうという姿勢によって成り立っているありがたい関係性になっている。

彼は経営者なので経営に関する悩みや課題を何かしら持ってくるのだが、幸福の科学では経営に関する教えが手厚く説かれているため、会話に困ることは今まで一度もなかったし、問題解決の手助けになれることもしばしばある。

互いにそれぞれの道で研鑽を重ねたからこそ、高度な悩みが発生し、それに対する高度な答えを導き出す助けが可能になっているんだと思うと、「俺達まんざらでもないんだな」っていう気持ちにもなれる。

ただひたすらに馬鹿なことばかりしながら青春期を必死に駆け抜けてきただけのつもりだったのだが、今こうして振り返ってみると、いつの間にか成長させて頂いていたんだなと、つくづくありがたい気持ちになる。

青春期は本当に未来が見えなくて、思い描いた通りの人生が全く展開してこない現実の中に、押しつぶされていくような気持にもなっていた。

絶望的な理想と現実のギャップを直視する勇気もなく、現実逃避の日々がいつまでも続くような時期もあったけれど、その時の自分がなすべきことは、一言でいえば「希望を手放さない」ということだけだったのだと今では思える。

「いかなる状況下においても、あなたは希望を手放さずに守り続けることができますか」という試しの時代が必然として与えられていたんじゃないだろうか。

僕はなぜかは分からないけれど、自分で独自の道を拓いていくという未来への希望を持ち続けていた。それは当然命よりも大切な信条として自分の中に宿っていた。

根拠は何もないのだが、自分の心の中にある一本の道を、静かに大切に守り続けて生きて来た。それは子供のころからある強固な感覚で、その感覚と現実とがなかなか整合されないことに対して、焦り、いら立ち、苦しんだ時期もあった。一時はそんな根拠のない空想のような感覚は忘れて、普通の人間になろうかと思ったこともあったが、ある人に普通の人間は普通の人間になろうなんて思わないと言われ、かんねんしたというか、諦めることを諦めた。

じゃあ現実をどのように変えていけばいいのか。どこに向かってどのように進んでいけば良いのか。それは分からないままだった。

答えを求め、道を求め、学び、探し、来る日も来る日も考えた。

今になって思うが、「これ」というような答えがあるわけではなく、求め続ける時間そのものが答えだったのだと思う。

かたや経営者。かたや未だ肩書のない真理探究者ではあるが、お互いに共通している、「求め続けた時間を生きた」という経験が結晶化して、世の中にその価値を与えようとして動き出しているのだと思う。

 

その葛藤や苦しみは解消しがたいものだが、回避すべきものでもない。

 

答えが得られない中で求め続け、力を溜めながら耐え忍ぶ時間の本当の価値が分かる日は、必ずやってくる。

自分の奥深いところからくる予感というものは、善き努力を積み重ねていくことであるとき目覚めのときを迎え、その本当の価値を開花させていく種のようなものなのだと思う。

2つの種が共鳴しながら今、芽吹いて行こうとしている。