心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

想像力の成長

美しさの本質とは外面的な象徴的表現の中にあるのではなく、それを映す各人が持つ内心の想像性の中にある。

心とは鏡である。

評価の固定された外なる世界はどこにもなく、各人の心の鏡が外なる世界の象徴的表現を介して美しさを想像したり、醜さを想像したりしているにすぎない。

見た目が美しさを定義するのだとしたら、盲人にとって美も醜も存在しないことになる。

盲人にとって美しさの基準とは何か。それは美しさを想起させる音や香りや触感だろう。たとえ晴眼者がそこに見た目上の美を認められなかったとしても、盲人の内心に美が投影されているとするならば、そこにはまぎれもない美があるのだ。

美を定義するものは各人の主観的な心にある。眼耳鼻舌身の五感は物質という象徴的表現を精神的に翻訳するための触媒に過ぎない。盲人が光を失っても美を失うことがないように、五感を持たずとも心あらば美は存在できる。逆に言えば、五感があっても心無くして美は存在することができないということだ。

芸術家は心の中に唯一存在する美のイデアを、受け手が五感を介して翻訳できるように、外なる世界に象徴的に表現する。そして、受け手はその表現作品を通して自らの心に美を想像する。

優れた芸術表現は、作品によって外なる世界に完成するのではなく、受け手の想像力によってその内なる世界に完成する想像のエネルギーのようなものなのだ。

受け手に「想像したい」と思わせる魔法のような力と言っても良いかもしれない。

あまりにも説明が行き届き、想像の余地のない作品は受け手を感心させることはあっても、その心を豊かにはしてくれない。それは解説であって表現ではないのだ。

 

僕は中学生くらいからあまりテレビを見なくなり、ラジオばかり聞いていた。

ラジオは映像表現がないため、音声だけを頼りに心の中に様々なものを自然と想像させてくれた。

見たこともないDJがどんな服を着てどんな髪型でどんな顔をしているのか。耳から聞こえてくる物語を介して心の中に映像を想像する。

そんな作業を中学から高校にかけて心の中で繰り返していた。

また、僕は小学校の頃から漫画が大好きだった。漫画の世界には音がないため今度は逆に音を想像しながら心の中で物語を完成させていた。好きな連載作品がアニメ化される度に、僕は内心で完成させていた作品が破壊されるような思いに駆られていたので、当時はアニメ化されることはあまり嬉しくなかった。

20代以降は小説や冒険作家のノンフィクションなど、文字だけの本を読みながら心の世界をさらに開拓していった。作者が表現する言葉だけを頼りに、その世界の温度や湿度、香りや音、圧迫感、テレビやラジオや漫画で描かれるような世界を心の中に想像し、構築していく度に、想像の経験は一つの技術として心に蓄積され、手持ちの絵の具の色数が増していくように、想像力はどんどん豊かになっていった。

音楽を聴いていても映像や物語、風、手触りのような質感や思いを、言葉による説明を介さずして感じ取るようにいつからかなっていた。姉は歌手だが、姉が歌うとき鳳凰が舞う姿や、一直線に吹き抜けていくイメージが湧いたりすることがある。これは僕自身の主体的な想像によるものでもあるが、表現者が作品に込めている種子のようなものが受け手の創造力によって発芽しているんじゃないだろうか。このように、芸術家や表現者は受け手の心によって美を発芽させ、開花させるのが本来の仕事であり完成なのだと僕は感じている。

 
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先日親友と飲みながら話していたことでもあるが、僕が昔の思い出を事細かによく覚えているのは、この共感覚によるものなのだと思われる。共感覚とは音に色を感じたり、味に形を感じるなど、一つの刺激に対して異なる種類の感覚を知覚する感覚だが、僕の場合は共感覚者とまでは言えないと思うけど、内省的だった青少年期に知らず知らず想像力を刺激する時間を多く持っていたため、一つの経験に対して多様な情報(音や色彩や感情)を紐づけて認知する癖がついていたのだと思う。周りの人達からは「すごい記憶力だね」と言われるが、これは記憶力の問題というよりは、想像力の問題なのだと感じている。

親友の店で酒を飲んでいるときも、味や香りだけでなく、そこにないはずの小川のせせらぎの音を感じたりしていたのだが、その時のことを思い出すときは、やはり味わいや香りだけではなく、せせらぎの音や、さらには小川に反射する木漏れ日の光が揺れる様が「記憶」としてよみがえってしまうのだ。勿論その場に小川が流れていたかどうかが分からなくなることは無いのだが、その酒の香りが自分の心の中に完成させた「内的事実」として記憶の中に定着しているのだ。ちなみに飲んだのは秋田の地酒で「栗林(りつりん)」という銘柄のお酒です。興味のある方は保証の限りではありませんが栗林で共感覚をお試しくださいまし。

 

テレビは映像もあり音もあり、見ていて楽なのだが、決して想像力を育んでくれるものではないと思われる。ただ受け身になっていれば想像力を使わずとも楽しむことができるため、主体的な想像力を要するラジオや本に比べ、受け手の精神活動を豊かにするものとは言い難い部分がある。映像と音声を通して情報を手早く理解するのには優れていると思うが、あまりにも受け手の理解を助けすぎた場合、想像力を要さない時間が増え、人間の本質である霊性を養う機会を奪ってしまう側面があると考えられる。

ゲームにはまり込むのもまた、想像力を養う観点からは問題があるように思える。

パチンコパチスロは逆に創造力を喪失させる危険な遊びだと思う。欲望を心の中に想起させて人間の理性を奪って破滅へと誘導するのがギャンブル性の高い遊びの特徴だと思う。はまっている本人は勝利を想像しているつもりでいるのだが、それは想像ではなく誘導された欲への反応であり、幻想への依存にすぎない。ネットワークビジネスにはまってしまうパターンも同様で、成功体験談を心に刷り込まれた人間が盲目的に幻を追いかけているのがその実情で、霊的には裏側の世界の影響下にあるのだと考えられる。

誰かの手によって目の前にぶら下げられた高級なニンジンを追いかけることと、美、あるは理想の内的想像はまったく異なるものであり、どちらが人間として優れた精神活動であるかは明白だろう。

実はパチスロネットワークビジネスも昔経験があるので、その問題性が理解できるのだが。

 

このように人間は良くも悪くも様々な精神活動を体験しているのだが、想像力を駆使する人間にとって世界は豊かさに満ちている。

人間にとっての本当の成長とは、想像力の成長なんじゃないかと僕は思う。

それは優れた表現力や、世界の美しさを豊かに認識する力だけではなく、仕事能力、指導力、人に対する優しさや許し、自己犠牲の精神に自然につながっていくもので、自他を隔てる壁をなくしていくために必要な「愛」と密接に結びついている要素だろう。

人間が死後におもむく霊天上界には肉体はなく、心しかないので、お互いの心が丸見えのガラス張り状態なのだが、他人の心が見えないこの世の物質世界に今生きているのは、目に見えない尊いものを想像する力を育む目的があってのことなのだと思う。

苦しみ多き世界ではあるが、そこには想像力を介してより高次なる愛を学ぶ機会が豊かに恵まれている。有限で一回きりしかないこの一生の時間を無駄にすることなく、本物の愛の教えを体得し、体現して生き抜いていきたいと心から願う。