心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活において起きる心の変化や動きをスケッチしています。心の変化後に起きる現実の変化や奇跡といった結果よりも、「どういう心の変化がきっかけで自己変革をできたのか」という原因にフォーカスした描写を試みつつ、あれこれ自由に綴っています。要は信仰に基づく自己変革の実況中継と日々のあれこれです。

身体への感謝と凡事徹底

身体への感謝

 

先月2週間ほど体調を崩していた時期があり、また、身近に老いによる身体の不調を口にする癖のある同僚との出会いもあったことから、健康であることのありがたみを実感せざるを得なかった。調子が良いとは言えない状況だからこそ、身体に対する感謝の思いを強く感じさせていただいていた。そして、自らもまた積極的に身体に対して感謝の思いを手向けるように心がけていた。

 

つい昨日は足に対する感謝をしていた。

というのも最近仕事を増やしたこともあり、歩く量が増え、足先が痛んで熱を持っているような状態になっていたからだ。

随分働かせてしまっているし、足に対しても一度きちんと感謝してみようと思ってのことだった。

 

今までこの足がどれだけの喜びを自分に与えてきたことだろうか。

そして、この足に、どれだけ思いを手向けたことがあっただろうか。

生まれてから今日まで、そしてこの人生が終わるまでの間、自分に付き添ってくれる、かけがえのない相棒。

君がいつもいてくれて、僕の思うとおりに動いてくれていたからこそ、僕の人生はとても豊かなものになりました。

縦横無尽に走り回った少年時代は、たくさんの風を感じさせてくれました。

疲れ果てるまで僕たちの望みを叶えようと、必死に動いてくれました。

たくさんの新しい景色を見せてくれました。

たくさんの優しい人たちに出会わせてくれました。

また、君は僕に旅の喜びを教えてくれました。

あの街も、あの海も、あの空も、あの国も、

あの人も、あの人も、あの人も、

すべての出会いを君が叶えてくれました。

君は僕の翼そのものです。

毎日の仕事だって、君が働いてくれるから成り立っています。

僕は自分が働き者だと思っていたけれど、実際に働いてくれているのは君たち身体です。

君たちに感謝することもなく、今まで自分が働いていたつもりになってたけれど、僕であるところの心に、身体という君たちが従ってくれたからこそ、これまでの僕の仕事はなりたってきました。

とくに身体全体を支え続け、運び続けてくれている君には頭が上がらないというか、足を向けて眠れないというか。その屈強さと忍耐で僕を支えてくれて本当にありがとう。

今まで君に感謝することもなく、当たり前のように過ごしてきたけれど、それでも文句ひとつ言わずに、僕の願いを叶え続けてくれて本当にありがとう。

今だって痛みに耐えて、ジンジンと熱で苦しんでいるのに、動けと言えば、動いてくれる。

本当にありがとう。

これからも、たくさん働いてもらうことになります。

長い長い険しい旅に、君がいてくれることで、どれほど僕を勇気づけてくれることでしょうか。

どれほどの仕事を可能にしてくれることでしょうか。

どれほどの豊かなドラマをつくり出してくれることでしょうか。

君の主である僕という心は、この恩に感謝します。

君が誇りとしてくれるような豊かな人生を形成し、たくさんの人たちに幸福を与える仕事に尽くします。

ありがとうございます。

主よ、この自由の翼を私にお授け下さって、まことにありがとうございます。

心より感謝いたします。

 

ていうような感謝の思いを光に乗せて足に向かって流すイメージを昨日していた。

その後他のことに取り組んで、1時間後位だろうか。

気が付いたら足の痛みが完全に消えて軽くなっていた。

 
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前の記事で「凡事は報恩であるがゆえに徹底は必然となる」といった趣旨のことを書かせてもらったが、その具体的実践の入口として、「身体への感謝」は誰もが入りやすいものだと思われる。

 

健康・不健康に関わらず、すべての人間が持つ「身体」という身近な存在は、ある意味で凡事の最たるものであり、健康であるときは特にそうだが、日々の繰り返しの中で、特別な思いで身体を意識することはあまりない。あるとしても、徹底した感謝まで至ることは今までほとんどなかった。

これは身体に限ったことではなく、身近な存在であるほどにその価値を低く見積もってしまったり、尊ぶことなく接してしまっている傾向がある。

例えばその対象は家族や同僚といった人であったり、毎日の仕事という日々の営みであったり、祈りや真理の探究といった自分自身が習慣としている信仰行為であったり、まるで当たり前のように、生活の中に溶け込ませているものに対する、自分自身の精神的な態度を振り返っていただければ、なんとなくお解りいただけるのではないだろうか。

 

「なんだか知らないけれど、当たり前のようにある。」

「自分の身体は自分のものなのだから、自分の好きに使おう」

無意識にこんな考え方を土台にしがちなのだが、これでは感謝などできようはずもなく、感謝なき対称に対して、いたわりが充分に行き届くことは難しい。

いたわりなき酷使は、身体を自分の所有物とする思い違いからきている。

身体とはこの世界での豊かな精神活動を支えてくれる、神仏から授かった「聖なる乗り舟」である。神様仏様から授かっているという意識があるからこそ、大切にできるのであり、ありがたみがあり、その尊さの根拠となるのだ。

暴飲暴食やバランスを欠いた食生活、不眠や過労、休養や適度な運動の不足、或いはその行き過ぎといった酷使がしばしばなされるとき、自分の身体に対する感謝が不足しているのではないか。尊さを忘れてしまっているのではないか。

そこに心からの感謝の気持ちがあれば、自分の過ぎた欲を慎んで、いたわりを施したいと、自然に思えるようにもなってくる。

 

健康への気遣いなんかは、いたわりの具体的実践として分かりやすい。

僕自身ここ最近身体への報恩業の一環として、食生活に対する手抜きを控えて、できるだけ栄養バランスの良い料理を心を込めて作るようになった。

これまでは、一人で作って一人で食べるのはつまらないし、どうしても手を抜いたり、インスタント食品に頼ったりしがちだったのだが、このごろは、本当によく働いてくれている相棒(身体)を粗末にする気になれなくなってきている。

毎回ではないけれど、ご飯を食べるときもできるだけよく噛んで食べるようになってきた。

前回の記事にも書いたけど、めんどくさいと思うと、本当にどんどんめんどうになるのだが、一つ一つを恩返しのチャンスととらえれば、凡事は喜びになるもので、一度の食事に対しても、「ありがたいな」という気持ちが本当に湧いてくる。すると、驚くほど食事が美味しくなる。

食事というものは感謝の思い=喜びによって美味しくなるものだと僕は思っているが、食物という恵みへの感謝、作ってくれた人への感謝など、あらゆる感謝とともに、感謝のエネルギーを身体に取り込むことで、喜びが美味しさとなって味覚上に表現されるのだと思う。

こうした食事にまつわる一連の精神的なプロセスは、とても想像性がある霊的な営みでもあるので、宗教的食育として掘り下げても良いと僕は思う。

このような精神的にも充実した食生活によって身体作りをしていくことが、霊体と肉体両面のデトックス=みそぎ払いにもなり、善の循環を作っていくのではないだろうか。

 

 

身体に対する感謝とその報恩業としての食生活を、身近に実践できる凡事徹底生活の入口として提案させていただいた。

凡事徹底生活はその範囲が多岐にわたるため、語りつくせないものがあるが、理解を深め、実践するほどに生活のすべてが豊かな精神活動の場として輝き、幸福感を増していけるものだと僕は思っている。いろいろ書きたいのだが、今回は身体というテーマで一発まとめてみた。

また違ったテーマで書き残していこうと思うのでお付き合いいただければ幸いでございます。