心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活において起きる心の変化や動きをスケッチしています。心の変化後に起きる現実の変化や奇跡といった結果よりも、「どういう心の変化がきっかけで自己変革をできたのか」という原因にフォーカスした描写を試みつつ、あれこれ自由に綴っています。要は信仰に基づく自己変革の実況中継と日々のあれこれです。

沈黙が金となる凡事と徹底

内省的な習慣はまず、口を閉ざすことから始まる。

不要な言葉は内省的な生活、禅的生活の妨げとなる。

もの凄く単純かもしれないが、「黙る」ことでまず物理的に静寂を作ることは、やる気次第で誰でもできることだ。

人に会っても会話は必要最小限の失礼のない程度、或いは仕事として差し支えない程度に留め、できる限り沈黙する。

多弁を慎むことなく心を静めることはできない。

心を静めずして心を見つめることはできない。

そういう時期を意図的に設け、自分の心を観察しているうちに、内心の多様な思いの変化に気づかされる。

 

沈黙の中でさらに心をも沈黙させようとすると、沈黙しない心に出会う。

自分の心が波立っていることに気づく。

この湖面の波立ちは何か。

雑念、悲観、見栄、欲、怒り、不満、否定、言い訳、恐れ、慢心、偽善、嫉妬

こうしたものを一つ一つ見つけ出していく。

このとき善悪の価値判断で自己処罰をしないで、すべてを明るみに出す。

何が問題かが明らかになれば、その時点でだいたいの悩みは消える。

心を波立たせているのであれば、それを思うことをやめれば良い。

自己処罰的観点でネガティブを探す行為は、ゴキブリを探しだして退治するような感じに近く、見つけ出したいはずの不要な思いが、隠れて逃げて出てこなくなる。

人は本能的に善を目指すため、内心の多様な思いに善悪のレッテルを張り付けてしまうと、都合の良くない悪を心の奥に遠ざけたり、隠そうとしたりして、見るべきものを見えないようにしてしまうことがままある。

そうではなく、部屋の掃除で廃品をピックアップするくらいの気持ちで良い。

 

反省はゴキブリ退治ではなく、部屋の掃除や、庭の雑草取り位のイメージが良い。

放っておけば害になるが、手入れをして無駄を取り除けば部屋は光り、庭の花はすくすく育つ。

多弁を慎むということと同様に、余分を取り除くだけで健全な成長が促されるということは多々ある。

 

結果を焦るあまり、凡事をないがしろにすると、そこからすべてがねじ曲がっていく。

不要な言葉で心を濁らせたままでは、真っ直ぐに伸びていけないのだ。

 

ゆっくりとした歩みで良い。

丁寧に言葉を整え、心を整え、自分の立ち位置と歩幅を知って一歩を進める。

人より早く歩こうとする必要も、背伸びをする必要もない。

今の時点での最高の自己を目指す。

つまりは自分自信との戦いなのだ。

目指しているのは他人と比べようのない本当の自分の道。

その道は聖なる沈黙の中で不動の確信とともに見出すものだ。

迷いの波立ちの中でこしらえた価値判断で決め付けるものではない。

内なる声に誠実に耳を傾け続ける姿勢をこそ固めよう。

 

そして、間違えることもまた許された慈悲であり、恐れるべきものではない。

失敗があったら必ずそこから知恵を得て、糧として、また立ち上がれば良い。

もともと何も持たないゼロから始まっているなら、何度でもゼロからやり直せば良い。

失敗多き人生こそ多くの知恵を人に与えてくれる。

そしてその知恵は自分だけではなく、他の多くの人を導く宝となる。

だから失敗もまた感謝すべき経験であり、知恵が宿された凡事なのだ。

そこから学べるものを学びつくす沈黙の姿勢が、次の未来を開く徹底の部分にあたるだろう。失意の時にわめき散らす人がそこから知恵を得ることは無い。

 

 

亀のごとき愚鈍な歩みに見えるかもしれないが、神仏が自分に与えんとしている知恵を探しつくすことで、多くの人をより遠くまで導くことができる可能性に賭けたい。


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