心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活の日々に思うことを綴ります

2018年9月2日(日)心をノックする音

総本山正心館へ

東武線でのんびり北上する時間が好きだ。

小さな旅をいつも楽しんでいる。今日は何故かそんな気分でもなかったけど。車中でずっとスマホいじってたからだろう。もっと景色を楽しめばよかった。

 

祈願以外何をするでもなく帰路につく。

途中立ち寄ったコンビニで買ったおにぎりが一つ多くカウントされていることに気づいた。残念な気持ちになったが、気にしても仕方ない。と思いつつも結構悔しい。こんなこともある。

 

帰りの電車に知っている女性信者がいた。あまり気が合わないので、距離をとって関わらないように心がけた。基本好き嫌いのない性分なのだが、珍しく苦手なタイプ。とくに女性で苦手なタイプってそうとう珍しい。

 

車内は冷房効きすぎていて寒かった。

そう言えば、コンビニ立ち寄ったばかりに一本電車乗りそこねたんだった。

なんか噛み合ってないな。

 

夜の仕事へ向かう。

途中乗り換えを間違ってしまった。

またしても噛み合ってない。

そして帰りは帰りでまた乗り遅れた。乗り換えた地下鉄も遅れてるようで、帰りは結局0時半位。

眠くてしょうがない。

帰らしてくれー。

 

毎日違った景色を見て生きているが、今日は素晴らしかったとか、今日はあまり良くなかったとか、表面的な感じ方は日によって様々だ。

この日一日で言えば、一見冴えない一日に見えるけど、本当は一つ一つの現象の奥に見るべきものが与えられている。

 自分の外の世界でいろんな人がそれぞれ勝手にいろんなことをしていて、その中で生きている自分は偶然にそれらの営みを目撃したり、それらの行動の作り出すエピソードの一部となったりしているわけだが、実は、自分が見ているそれらすべては全部自分の心だということを知っている人は少ないし、僕自身も忘れがちだ。

コンビニのおばちゃんにイラついたとか、苦手な人を見つけて逃げたとか、冷房が効きすぎて不快だったとか、全ては客観的事実というよりは主観的な意味付けによって作り上げた物語なのだ。コンビニのおばちゃんにイラついている主体も、特定の誰かへの苦手意識の持ち主も、すべて自分自身であり、目の前に現れたその人は原因ではない。

今日現れた出来事が示しているのは、自分自身の心。一日を振り返って、感情的にしっくりこない出来事、平常ではない部分は必ず際立って心に残っている。その自由になっていない感情をつくり出している心を見つめ、自分自身の心の何が原因で苦しんでいるのか、なぜそのように他の人の言動を受け止めたのかを追求し、原因部分の不調和を修正することで、人間は「あるもの」を得ようとしている。

 

自由

 

自由を求める心に対してどこまで誠実に向き合えるかが、反省業の本質なのではないかと思う。

その心の不調和は自由を求めたから起きているSOS信号なのだけど、苦しみを作っている根本原因の「心の作用」と向き合って原因追及をするわずらわしさよりも、他人や環境のせいにして自分の心の不調和に蓋をし、「なかったこと」にする方が楽だと勘違いして放置する。結果、放置された心の作用はそのプログラムを変更することなく世界を同じように心の中に投影するため、心の持ち主であるところの本人は違った形で同じような苦しみを何度も経験するはめになる。

本当は、嫌に感じた出来事を放置するのではなく、自由への入り口として探求することで悟りに近づくことができるんだけど、感情的には割り切れない所もあり、「嫌なものは嫌!あの人が悪い。私は悪くない」ていう感情に陥りがちだ。でもそこに出口はなく、「人任せの自由にならない人生」が考え方の選択責任として現れる。

同情の余地など本当はないのだ。

だからこそ自由への希望がある。

どこまで責任を覚悟して、受け止めて、他人ではなく、自分を変える努力をするか。

心の奥底で自由を求める本当の自分が、苦しみと言う形で放っているSOS信号を受け止めるのは、

受け止められるのは、他でもない自分自身でしかない。

世界中のどこにも、本当の自分の叫びを見つけてくれる人はいない。

 

あなたが最後の望み

あなたが諦めたらもう、だれも私を見つけてくれる人はいなくなる

あなたが最後の希望

今日も本当の自分は叫んでいる

今日も本当の自分はたった一人の孤独な世界で

ただ一人の助けを待っている

今日もSOS信号を打ち続けている

今日も信じて

ただ一人

祈るように

心をノックし続ける


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