心のスケッチ  佐々木大記

真理探求の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学を現在制作中。近々電子書籍で第一話を発表予定。(2019.09.27)

10.16(火) 「信じる」という歩み

 ssktmnr.hatenadiary.jp

 

 

ssktmnr.hatenadiary.jp

 

去年末と今年初めにしたためた記事ふたつ。

信じるということについて今一度思いを向ける良い機会にあるのかもしれないと思った。

その時々で書きたいと思ったことを書き残しているだけなのだが、『信仰の法』の年だからこそ繰り返し探求し、深められるテーマだと思う。というより、今年のうちにどこまで深められるかを意識しておいた方がよいのかもしれない。

 

幸福の科学では数限りない教えが縦横無尽に説かれているため、霊的でありながら理路整然としていて、法や教義にとても説得力がある。

数多くの教えは学ぶことで納得ができ、実践することでさらに納得ができるわけだが、人それぞれに理解を越えた教えも存在していることと思う。僕自身分かっているつもりが分かってなかったということもかなりある。

頭では理解できているけど、実践はあまりできていない。という場合が「分かっているつもりで分かっていない教え」ということになるのだが、その違いこそ「信じる」ということに関係しているのではないだろうか。

 

理解だけして信じていないとはどういう状態か。

「そういう考え方もあるんだね」っていうレベルでの理解。

「言いたいことの意味はよく分かった。理解しました。」けど受け入れてはいないから実践が伴わないレベルでの知識学習。

 

自分自身耳が非常に痛いのだが、結局「信じてないからできてない」って言うことになってしまう。

「納得できていないからできません」

そんな考え方が自己変革の障壁となっていつも立ちはだかっているのだが、この壁を突破するのは最終的には、「納得」ではなく「信じる」という自分を越えた世界への帰依しかない。

「分からない。だけど、信じる」

自分の納得できる範囲、認識力の範囲が広い人は、この世的な努力の範疇でも発展していける余地は広くあると思うが、いくら自分を大きくしたところで自分を越えることはできないし、その限界はすべて自分自信の中で完結する。

信じる世界に身を投じる人は自分自身を越えて限りなく発展し、成長していくことができる。

知性や能力が高い人間ほど気を付けなければいけない。

知識量や能力の高さ故に自らを優れたものとする満足感に浸るうちに、「信じる」という最高度の霊性を失っている可能性がある。

 

僕自身はどれだけ「信じる」という勇気ある決断をこれまでしてこれただろうか。

自分の知性で納得のいく範囲でしか教えを受け止めてこれていないのではないだろうか。

そう考えると、これは結構厳しいな(笑)

学んで知るということが真理の道への入口となるが、広大無辺な入口を端から端まで歩いてみたというだけで、実は全然中に踏み込めていないという可能性だってある。

人によっては入口まで辿り着けずに人生を終えることもあるだろうし、その道に一度入っても求めるものの価値を見失い、引き返していく人も沢山いるだろう。

そんな魂修行の道のりの中で、どこまで主の住まう宮まで近づいていけるかが試されているのだと思う。

その進度はどれだけ信じることができたかによってのみ測り得るのではないか。

学んで知って、信じて受け入れて、行動が変わり、本来の自己を発見する。

それが信仰に基づいた真理の道のりの在り方なんじゃないだろうか。


f:id:ssktmnr:20181017154928j:image

ちいさなちいさなこの世の中だけで、いくらたくさんの支持を集め、成功に見える結果を得たとしても、本来掴むべき霊性の進化を掴み損ねたのならば、それは不毛な魂修行であったと言わざるを得ない。

安易な納得や理解に頼ろうとする弱い心に負けることなく、「信じる」という選択を貫けるような成長をめざしたい。