心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

10.17(水) 宏洋さんに学ぶ

ひろしさんの動画が話題だ。

幸福の科学に関する動画がアップされ始めてからしばらく見ないでおいたのだが、自分の中でそろそろ見ても大丈夫かなと感じたので思い切ってまとめて全部見た。

 

一連の動画を触媒として作用している霊的背景について、信者なので信者の立場で感じるところになるが、自分なりに心の動きをまとめておく。

教団とひろしさんとで食い違う部分があるため、何が真実なのか良くわからない。

そのため、人間心理として本当のことを知りたくなる。

で、いろいろ憶測をめぐらせて見たりする。

このあたりで「自分なら真相を見つけられるんじゃないか」という『慢心』『愚かさ』が出てきている。

慢心に基づいて判断しようとがんばっていると、「教団にもおかしなところがあるんじゃないか」という『疑い心』が出てくる。

信者なら信じろって話なのだが心は真逆にいつの間にか疑っているのだ。

こうなると「教団は何をやってんだ!」⇒『不満』『怒り』『僧帰依に対する破壊』

とか

「総裁先生は公私混同するのか?!」⇒『疑い心』『悪しき見解』

ていう感じでいろいろなネガティブ感情が増殖していき『和合僧破壊』に向かっていく。

 

ひろしさんが意図してそんな仕掛けをしてるわけではないだろうけど、”背景”はそんな感じなのかなと思った。

 

『信仰の法』の年に競い立つものとして『疑』という己心の魔との戦いが今回僕にはあった。

正見の前提の正信が崩された状態で物事を正しく見ることはできないというが、全くその通りだと言うことを思い知った。

始まりにあった『慢心』『愚かさ』

ちっぽけな自分の人間知に頼ろうとする愚かな考えを全て叩き出し、一瞬でも疑ったことを深く反省し、主に謝った。

そして、一切判断せず、ただ信じた。

ちっぽけな自らの知恵に対する過信と執着を放棄して、ただ信じた。

100パーセント信じた。

信じることでようやく自分の煩悩が見えた。

 

ここで、

「やっぱりアイツがクロなのか!」なんてふうになると⇒『怒り』に呑まれ始める。

というか実際半日ほど呑まれた。

「気に入らねえ」

「許せねえ」

なんて感じに。

それでは結果として霊的背景の悪しき思惑から外れられない。

彼らが『疑』によって競い立とうとしているとしたら、彼らにとって一番嫌なことは『信仰』。信じることの尊さが広がることなんじゃないだろうか。

信じることで主の力、主の智慧、主の愛、主の光を頂いて自分自身を導くことはできる。

慢心にたいしては謙虚さをもって導き

怒りに対しては哀れみをもって導く

謙虚さも哀れみの心も、信仰によって引いてくることのできる導きの光だ。

 

誰かと取っ組み合って争えるほど自分は強くも賢くもない。

そもそもそんなヒマはないし時間の無駄になるだろう。

闇を打ち負かそうとしても、その闘争心によって自分自身がやられちゃうと思う。

 

じゃあ何ができるのか。

信じること。

信じることで主と繋がることができる。

なぜなら主が弟子を信じて下さっているから波長が同通するのだと思う。

繋がることで自分自身を導き、自らもまた闇を照らす小さな光の一つとなる。

「彼ら」はその縁を断ち切りたいんじゃないだろうか。


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闇にとっ捕まっていないで

ひたすら光を広げていこう。

 

「信じる」というシンプルでありふれた言葉の本当の価値を、今学ばせて頂いている。