心のスケッチ  佐々木大記

真理探求の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学を現在制作中。近々電子書籍で第一話を発表予定。(2019.09.27)

10.20(土) 一日の意味を示す

毎日を振り返って記事を一つ必ず書くことが、いつの間にか日課になっている。

一日の中に与えられた何かを絶対に見つける。

そういう意識をしていないと、日々はどんどん過ぎ去っていき、何があったかなど思い出せない過去が積みあがっていく。

何かを見つけだそうと意識すれば、必ず何かしら見つかるもので、それを見つけるだけにとどまらず、さらに磨き、より輝くようカットし、多くの人に愛されるような形に仕上げて遺していく作業をブログという形でやり続けている。

これは一日を与えて下さっている主とのコミュニケーションの一つなのだと認識している。

 

僕はこういっちゃなんだが大した人間ではない。

ビルの清掃員として、毎日掃除ばかりしている労働者だ。

便器にこびりついた汚れをたわしでゴシゴシこすったり、人様があまりやりたがらないような仕事を毎日繰り返してくらしている。

 

不思議だが、毎日更新している記事をざっと振り返ってみると、毎日掃除ばかりしている人間の日記とはとても思えない。

自分で見て思えないのだから、他人から見てもちょっと信じられないのではないだろうか。

この日だって朝4時半におきて5時前には猛ダッシュで駅に向かい、出勤し、せっせと掃除をしていた。そういう生活でありながらも、僕の実感は清掃員としての一日というより、真理探究家、或いは思想家(いずれも自称だけど)としての一日という感覚の方がどちらかと言えば濃い。

 

これは面白い現実だと僕は思う。

その人がどのような人物かを定義するのは、「その人が心に思うことそのもの」だというが、その言葉を僕は行動と実感で証明しようとしているようだ。

つまり、誰であっても、どんな環境に置かれていたとしても、人生を輝かせることは可能だということを身をもって表現しているのだ。

 

一日を終えるとき、「今日も一日便器掃除がんばった」などと微塵も思うことがない。

いつも考えているのは、

 

主に与えて頂いた一日を充分に生かしきれただろうか。

与えられた一日の中で学ぶべきこと、気づくべきこと、をきちんと受け止められているだろうか。

明日はもっと立派に生きたい。

主に喜んでいただけるような一日を生きられる人間にどうしたらなれるのだろうか。

 

そんなことばかりで、仕事のことなんて思い出すことがないし、そもそも仕事しているその時ですら、ほとんど仕事のことを考えていない。

仕事を軽んじているわけではないが、仕事も心の修行の中に含まれてしまっているため、どうしても意識の中で大きなシェアを譲ることができない。

 

こうして日々を振り返り、その日一日の意味付けをしていくことで、思想家としての自己認識を積み上げて言っている面があるのかもしれない。

おそらく、何も振り返ることなく、会った出来事そのままに一日を受け止めて終わっての繰り返しをしていたら、ただのしがない清掃員として、どこかみじめな自己像を掴んでいるのだと思う。

それが普通の心の在り方だと思う。置かれた環境に応じて自己認識が決まってくる面は事実あるし、自分自身もみじめな気持にさいなまれたことが過去あった。

けれど、意識一つで環境に左右されることなく、豊かに、どうどうと誇り高く生きることは可能だということをこの場を通して証明出来ているのではないだろうか。

神仏を想うことで如何なる環境下にあろうとも、最高度の誇りを自らに宿して生きることができる。

そしてその誇りは神仏に対する信仰心を高めることで限りなく強くしていくことが出来る。

なぜ誇らしいのか。

それは、神仏のかけらともいうべき仏性を人間は一人一人必ず心の中に宿しているからだ。

神仏の偉大性をより深く知るということは、自分自身の魂のルーツがどれだけ偉大なものから来ているのかを知ることに通じる。

神仏への信仰心とは、自分の内なる仏性に対する限りない信頼と両立するものであり、強さの源泉でもあると思う。したがって結局は自分自身の内面に帰ってくるものなのだと思う。というより、内面にきちんとフィードバックされる形で信仰というものをとらえないと、正しい信仰にはならない気がする。

信仰の対象である主の偉大性を知れば知るほどに、自らの魂に宿された主のかけらの偉大性を知らされているのだ。

僕ら幸福の科学信者が、祈りによってあらゆる光、力、知恵、愛を主から頂くことのできる根拠は、仏性による主との繋がりにある。

主を信じるのであれば、同時に自らに偉大なる仏性が宿されていることをきちんと信じ、認めることだ。

それは、神仏の心を実現せんと願う信仰者にとって、大きな力の源泉となる事実だと思う。

僕自身まだまだ、自らに偉大な仏性が宿されているという実感が不十分だと思う。

だからこそ、日々の中で仏性を拝みだすかのように信仰生活を続けているのだ。

そうした真実を求める日々であるからこそ、今の境遇に関わらず、心に豊かな景色が色鮮やかに映し出される。

 

吉田松陰は投獄中、囚人たちと学問を教え合うことで、たとえ獄中で死を待つ身であったとしても、人間完成への道を歩む喜びを得ることが出来ることを、囚人たちに教えたという。

共に得意な分野について学び合うことで、それぞれの長所を伸ばし、生かし合い、囚人たちは自分たちに存在する意味を見出すことが出来た。

「価値がないと思っていた自分に存在する意味があることを知る」

希望を見出せるはずもない獄中で、今自分が生きる意味を知ることが出来るなんて、どれほどの喜びであっただろうか。

 

獄中であっても心の持ち方ひとつで、人間は自らの内より人生の輝きを見出すことができることを松陰は身をもって示してくれた。

その心をただの歴史物語として過去のものとすることなく、現在に生きる誰かの希望に変えることは、歴史ある国に生きる民族としての責務だと思う。


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誇るべき心。

遺すべき精神的遺産。

そうした偉人の精神を体現して生きることは、誰であっても、どんな立場にある人間であっても可能なはずだ。

その証明の一環として、今の立場のうちにやっておくべきこと、示すべき精神的態度というものをここで明らかにしていきたいと思う。

今の仕事や生活の在り方がいつまでも続くわけではないと思っている。

だからこそ、、

今のうちに、今じゃなければできない、自分自身を使ったある種の表現があるのだと思う。