毎日よく朝早く起きれるなと、我ながら感心している。
大体4時間程度の睡眠で一日を駆け抜けているから、一日の持ち時間が20時間。
随所で居眠りはするのでもう少し短くなるとは思うが、ずいぶん長い一日を生きているなとよく思う。
実際、夜自宅に帰る頃には朝あったことが昨日のことのように思えたりするから面白い。
このごろは朝自宅を出るときもまだ夜のように暗く、帰ってくるときは当然夜なので暗いため、たまに日中昼寝をしに自宅に帰ってくると、明るい陽が差す自宅が新鮮に感じたりもする。
この日は少し疲れもたまっていたため昼寝をしに自宅へ帰ってきた。
この頃は毎日できるだけ精舎での参拝の時間をとるようにして、意識が俗人になりきらないよう気をつけている。とても良い習慣だと思うが、いつまで続くだろうかと自分をまだ疑いの目で見つめている。
それ故に昼寝しに帰る事に多少の逡巡はあったが、久しぶりに昼間の自宅に帰ると「やっぱり我が家が一番だな」と思えるのでとても幸せだ。
自宅がただの寝床としての機能しか果たさなくなっていくと、それはそれで信仰生活としての拠点らしさが失われていくので、ときおり昼間に帰って一息入れてからゆっくり礼拝の時間をとるのも大事だと思う。
夏の間はシャワーを浴びるために毎日昼に帰って昼寝をしていたので、全然精舎へはいけてなかったことを思い出す。
宗教的な生活はプロが調えた磁場を中心に、自宅での信仰生活を引き上げていく形が良いと実感している。来年の夏はどんな生活をしているか今は分からないけれど、今年のように暑さに負けていては充分な精神活動はできないだろう。
与えられた環境の中で、いかに宗教的な心を養うかということが日々に試されている。
苦難困難が訪れたときに、今保てているバランスを守ることができるかどうかは日々の小さな信仰行為と他の多くの人への感謝の積み重ねにかかっているのだと思う。
たくさんの人に愛され支えられている実感と、主が注いでくださっている愛と期待への認識を、日々に深めていくことで、心を強くしていける。
自分に注がれている有り余る愛を深く知っていればこそ、試練のとき、雌伏のときを静かに越えていくことができるのだろう。
この長い夜を越えて栄光に浴するときがいつか訪れるのだろうか。
それともその夜明けの光への希望を胸に死んでいくのかどちらかは分からない。
今のところ僕にできることは、「このままで終わらせるわけにはいかない」と神様に思って頂けるほどまでに自らを高めていくこと。
自ら道を切り開いていく強く厳かな意思は、その営みの中で静かに蓄積されてゆく。