心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

10.31(水)一日一生「未来への終活」

10月最終日

 

この一か月を振り返ってみるのもいいかもしれない。

毎日寝る間を惜しんで無理やり一日の活動時間を膨張させる日々が続くうちに気が付いたら月末って感じだった。

8月から始まった休みなし、一日4時間睡眠の今の生活リズムは大変は大変だけど、さすがに慣れてきた。

以前はちゃんと寝て、ほどほどに働いて、ほどほどに休むのが良いと思っていたけど、今の「ほどほど」じゃない生活の方が僕には合っているようだ。

時間的余裕がない方が無駄をそぎ落とさざるをえないため、余計なことをしなくなってきているし、余計な迷いや悩みを抱えこむこともなくなった。

やることが多いのだけど、思考はかえってシンプルになっている。

 

周りの人に合わせずに、自分なりのやり方、生き方、歩み方を少しずつ発掘していくような感じで、徐々に自分らしさが現れてきている。とても良い感じだ。

久しぶりに会った友人には理解されなかったが、自分で納得済みの生き方なら、大変だろうが何だろうが呑み込んでいけるものなのだ。

そういう意味では自分にしかできないことをしているのかもしれないけれど、常識にとらわれずに「自分はこうするんだ」っていう覚悟を決めてしまえば、大抵のことはやってのける力が人間には与えられているのだと思う。

 

常識の範疇だけで生きていると分からないことかもしれないけれど、人間は自分で思うよりも、もっともっと大きな力を発揮することが出来ると信じた方が絶対に良い。

そう思わない限り、様々な可能性を秘めたまま、どんどん人生の時間を通り過ぎさせていくことしかできない。本当はできたはずの、かなえられたはずの沢山の夢と引き換えに「ほどほど」の平穏な日々を生きるのも選択の一つではあると思うが、そもそもこの可能性の存在自体を信じず、知らずにいるとしたら、「選択そのものをできていない」ということになる。

それは不公平に感じるかもしれないけれど、可能性を信じないことによって生じる責任は、信じない本人が負うものとなる。

 

あなたは自分で今の人生を本当に選択できていますか。

自分の手で閉ざしてしまっている可能性があるんじゃないですか。

或いは、可能性の創造を怠っていませんか。

その結果自ら狭めた選択肢の中をを歩んでいるのに、自分の置かれている環境に、人生に、ケチをつけてはいませんか。

そういう言葉を自分自身に真摯に問い続ける姿勢をいつも持っていたい。

 

限界近く生きているつもりの今の自分であっても、この問いかけに自信を持って答えることは難しい。

本当に自己限定を外して未来を見ることが出来ているのかどうかは、終わりなき問いかけなのだと思う。

どんなに成功したとしても、或いは努力し続けていたとしても関係なく、「可能性」という坂の上の雲は存在し続ける。

そこに至るための坂は、汗と創意工夫と自己変革だ。

今という安全地帯に執着して、見て見ぬふりをしている未来が、いついかなる時も必ずあるはずだ。

そうでないとしたら、80年という人生はあまりにも長すぎるんじゃないだろうか。

棺桶の蓋がしまるそのときまで、人間には成長の余地が与えられ続けるものだと僕は固く信じる。

たとえ自分の死期が近づき、「終活」をすることがあったとしても、その中における人間としての成長を絶対に求め続けるだろうし、必ず成長を実現し、自らの一命を賭して人間に与えられた可能性が無限であることを証明しようとするだろう。

 

この日一日を自分が生きることによって、何か新しい発見や、少しでも成長出来るような恵みが、必ず神様から贈られていると信じている。

こうした文筆を続けているのは、そうした神仏からの恵みが今日はどこにあったかを探求し、証として記録を残し続けている部分もある。

たいした何かを残せているわけではないかもしれないけれど、目に見えない世界からの恵みが、今日の自分に必要な形で、確かに与えられているということを、一日一日積み重ねていくのも、霊界の存在証明に繋がることなんじゃないだろうか。

神仏の愛の、存在証明に繋がることなんじゃないだろうか。

そう考えると、一日を一生として生きる信仰者にとっての「終活」の在り方を僕は日々に実践しようとしているのかもしれない。

 

生前のこの世的後始末なんて取るに足らない小さなことだと思う。

遺品の処分や相続をするために生まれて来る人間なんて一人もいないのだ。

人間は死ぬ間際にこそ、限りある一生を通して成すべき本来の使命に思いを向けるものなんじゃないだろうか。

 

一人文章を綴る夜、眠気の限界が訪れ、意識が遠のいていく中で自分の両腿を叩いたり、貧乏ゆすりをしたり、頭をぶるぶる振ったりしながら、睡魔を払いのけ、言葉をなんとか紡ごうとしていることもよくある。

見苦しい限りかもしれないけれど、もしかしたら死ぬ間際であっても同じように今自分ができる何かをやろう、「今日も何か大切なことが神様から与えられた証を残そう」と、生命を振り絞っているんじゃないだろうか。

「おいおい。この爺さんどこまで振り絞る気だよ…」

そんなことを周りから思われながら、死にそうで死なない日々を過ごすある日、

 「今気づいたんだけどさ…」

そんな最後の言葉を残して永眠。

 

あると思います。

 


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忙しくなるって良いことだ。

限りある時間の中に身を置くことで、人生の有限性を感じやすくなった。

悔いなく一日をより燃焼させるために、明日は何ができるだろうか。

 

坂の上の雲から目をそらさずに求め続ければ、必ず次の一歩を置くべき場所は示される。

それが人間に秘められている可能性へ続く一歩だと、強く信じている。