心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

11.27(火) つぼみを慈しむ心

1980〜90年代の御講演会のカセットテープをちょこちょこデータ化している。
この日は『知恵の原理』
経典と違い、会場の雰囲気が伝わってくる感じが良い。

かつて両親が拝受したものだが相当数ある。
今となっては再生機器がないため、誰も見向きもせず、棚やダンボールに詰められたまま眠っていたのだが、放っておくのはあまりにも勿体無い。
意を決してカセットデッキを購入し、アナログ音声をデジタル化するソフトを探し出し入手。
以来ここ2年ほど実家に帰るたびに数十本のテープを回収し、少しずつ東京の自宅でデジタル化し、スマホにストックして役立ている。

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PCがあれば↑こういう便利なソフトを使ってアナログ音源をデジタル化できるのでお勧めです。

もうすぐ年末年始で帰省するけど、このお宝目当てに帰るようなところもある。
二世会員として生きることができ、この上ない幸せである。

そういえば以前支部で初めて会った方に「失礼ですが、二世会員ですか」と質問されたことがあった。

失礼とはいったい何事であろうか(笑)

「二世」という言葉を卑屈なニュアンスで使っているように感じられる方(一世二世問わず)に会うことがまれにあるけど、もし「二世=残念な人たち」のような考え方が共通無意識層に潜在的にあるとしたら、そのような認識は一切取り除いて、青天井に期待してほしい。

一般の人よりもよほど霊的な集団なのだから、潜在意識の力で次世代を動かすことも殺すことも可能だと思う。
無論本質的には自分自身の責任だが、無条件にがっかりされているのは何だか悲しいものである。

これに限ったことではないけど、自分自身をも含めたあらゆる人に対して、限りない期待の心を向けておいた方がきっと得だ。

宗教そのものに関しても、「=はまっちゃった人たち」「=弱い人たち」「=馬鹿な人たち」「=怪しい人たち」といった偏見が、いまだに世の中にはあると思う。(あると思っていることも偏見かもしれないが)
自分が偏見にさらされるのは100歩譲って良いとしても、問題なのは、偏見を持つ側の人自身が「不幸から抜け出して本当の幸福にたどり着く」っていう人生最大のチャンスをつかめないという点にある。結局は偏見を持った側の損でしかない。

民族問題にも話を広めれば、中国人に対する偏見も無条件に広まっているように感じる。中国共産党に対するイメージの悪さを、そのまま国民に対するイメージの悪さとして二重写しにしてしまっている人が多いんじゃないだろうか。
僕が付き合いのあった中国人の多くは良い人達だった。
日本人とは違う気質ではあるが、付き合ってみると人懐っこく、日本人よりもオープンで清々しい。
こういう良い部分を偏見で切り捨てて、マナーがどうだとか小さなことばかり永遠とあげつらうのは、とてももったいない事だ。

良き可能性に対して心を開いていればこそ、チャンスに気付くことができるし、信仰を掴むことだってできるのではないだろうか。

自分自身も含めどのような相手であっても、仏の子であることを信じ、その仏性が目覚め、輝きを放つときを期待しながら生きられる毎日は、幸福であると思う。
その心は魂の親である仏の心に限りなく近い愛の心なんじゃないだろうか。
偏見の目で他人や自分を疑いながら生きる心は、不幸である。
仏性を見つめることなく生きる心は、不幸である。
幸福な心で、無条件に人の善なるを期待し、その輝きを想像するだけで、わくわくするし、うれしく、愛おしい気持ちになれる。

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開花した桜はもちろん美しいけど、花びらをちらつかせている開花前のつぼみもまたかわいくて僕は好きだ。
彼らが太陽の光を浴びて開花していくのと同様に、僕たちもまた霊太陽の光を浴びながら、自らの仏性を開花させていこうとしている存在なのではないだろうか。
その秘められた未来に対して、前向きな想像力を働かせるだけでも、それは充分「与える愛」と言いえるだろう。
言葉には出さずとも仏はそのようなお気持ちで、一人ひとりに導きを与えんとしておられるのではないだろうか。
つぼみを慈しむような心で。

なんの価値もないと思っていたダンボールの中に、二世を目覚めさせる講演テープが山のように眠っていることだって現実にある。

いついかなるときも全てに宿りたる仏性を見つめようとして生きられる人をめざそう。
世界のすべてが愛おしく感じられるくらいまで、愛しぬきたい。