心のスケッチ  佐々木大記

真理探求の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学を現在制作中。近々電子書籍で第一話を発表予定。(2019.09.27)

12.16(日)奇跡の担い手たちへ

目を覚ますと自分の部屋ではなく、精舎の宿泊堂であることが嬉しい。
なんて幸せなんだろう。
仏様のお腹の中で眠っているかのごとき安寧。

朝、大正池を散歩した。
これもなぜか毎回の恒例になっている。
初めて生誕館に来たとき、到着したのが早朝で、開館時間まで暇だったので行ってみた場所だったのだが、期待に反してとても良い場所だった。
誰もおらず静かで心の休まる美しい場所だった。
それ以来自分の中で朝の池散歩は儀式のように恒例のものとなっている。
おかげさまで生誕館で朝ごはんを食べれたことがない。
けど、
心を静めるにはなかなか良い儀式だ。

清浄な朝の冷たい空気を肌に感じながら歩くうちに目が覚めていく。
日常生活ではこのような時間をとるまもなく仕事をしている。
でも、日曜だけは朝仕事ないし、その気になればできなくもないか。
努力して習慣化してみようか。

自宅を信仰空間として整える習慣が生まれたのは、初めて那須精舎に宿泊したあとだった。
元々綺麗好きなので、部屋は普段から片付けていたのだが、那須から自宅に戻ったときは、とても汚いように見えた。
それ以来環境整備が習慣化した。
精舎に足を運ぶといろいろ感化される機会があり、それが自分の生活を変え、人生に大きく影響を及ぼしてくれる。
信者以外にも開かれた場所なので、もっと沢山の人にこの磨き抜かれた空間を味わってもらえたらそれだけでも伝道になると思う。
信仰は言葉からはじまるが、言葉だけで終わるものではなく、あらゆる方法を通して表され、人の心に訴えかける。
信仰空間に足を運ぶことも、見えない世界の神を感じ取るチャンスではあると思う。
人生の中でそういう機会を一度も得られずにいるというのは勿体無いことだと純粋に思う。



研修後昼食を終えて帰る間際に昨日仲良くなったおじさんに会った。
聞けば生誕館限定御法話を拝聴していくか迷っているようだったので、お勧めさせて頂いた。
昨日きちんと拝聴しておいてよかった。
こういうちょっとしたきっかけで人の人生は本当に変わってしまう。
出会った人とのほんのすれ違いざまの一言が、そんなに大きな影響力になることはそうそうないと思うが、聖地での縁は基本的にすべて神仕組みだと思っておくと、神仕組みも発動しやすい。
前回来たときは偶然一緒に合宿に参加した法友と、研修後の会話の流れで四国正心館に行くことになり、一度会ってみたいと思っていた人に会えるという奇跡が発動した。
くも膜下出血で倒れ、死後の世界を見た【臨死体験者が「あの世」をリアルに語る】動画インタビュー | 幸福の科学 HAPPY SCIENCE 公式サイト
↑この方に会った
四国正心館に行くときはすっかりこの方のことを忘れていたのだが、たまたま通りがかった職員さんに館内を案内してもらっている途中で、その人がこの人だということに気づいて、30分ほど話し込んでいつの間にか友人の死について相談し、気付くと号泣していた。
すべては気づいたらそうなっていた。なんの狙いもなかったのだが。
聖地での行きがかりというのは本当にすごいものがある。

そんなありがたい恵みをかつて頂いた身であったので、自分も何か良ききっかけを与えられる”与える側”になれたら嬉しいと思ってたけど、もしかしたらその願いが叶ったのかもしれない。
今回お勧めしたとおり拝聴して頂けたかは分からないけれど、「気になる御法話」としての印象を濃くすることは少なくともできたはずだ。
でも絶対見てほしいなー。
限界にぶち当たって苦しんでいる人や、人生に不安を抱えている人、なかなか思うようにいかない中で努力を重ねている人、純粋に法を求めているすべての人にたどり着いてほしい御法話だと思う。

生誕館という場所は「たどり着いたなー」っていう感覚がとても強い場所だ。
礼拝堂で研修なんかを受けていると、この世にいるとは思えない感覚になってくる。
特に、近藤館長の説法は何の濁りもない光が差し込んでくるような清らかさがある。
天上界につながる特別な場所だから、簡単に来れるわけではないっていう感じがするのだろうか。
研修中法談をしたご婦人は四国の方で、気軽に来てしまっている自分の意識の低さを嘆かれていたが、そんな涙を流せる時点でとても清らかであるし、そういう心を持てるということ事態、とても尊いことだと思う。
ときどき、一般の方も見学に来るらしいのだが、館長が案内しても怖くなって途中で帰ってしまったりすることが多いらしい。
皆、信者同士のなかで日々生活をしていると忘れがちだが、この信仰にたどり着くことは簡単なことではない。
信仰を掴むまでの間にそれぞれが超えた関門や捨てたこと、信じるという決断。
その一つ一つはすべてが奇跡だ。
信仰を掴んだ後も何かを乗り越えるための試練は何度も続く。
そうした繰り返しの中で誰の目に触れることもなく、評価されることもない勇気ある決断を積み重ね続けている人が、たくさんいる。
自覚なき聖者。
自覚なき天使。
自覚なき偉人。
自覚なき教師。
互いに普通の人間やってるつもりになっているけど、実際はすごい人たちの集まりだったりする。
目に見える形で成功を収めている方もいるけれど、もっとも尊いことは純粋な信仰にたどり着くことだと思う。
永遠の魂修行の道にたどり着くことだと思う。
法シリーズの最新刊として『青銅の法』が発刊されたが、この法についても、「たどり着けた」という感覚が僕のなかにはある。
昨晩相部屋のおじさんと話していたが、『青銅の法』が説かれていないパターンのパラレルワールドに行っている自分もいるのだと思う。
一人ひとりのあらゆる選択と決断の分岐の繰り返しの果てに今、この法にたどり着いたのが、この世界を生きる僕たちなんじゃないだろうか。
そう思うと、「一緒に頑張ってきて良かったね」という誇らしい気持ちになれる。
自信を持っても良いんじゃないだろうか。
研修のなかでいくつかあったインスピレーションのなかでも、「簡単にたどり着けるものではない」という言葉が印象深く残っている。
他の誰かががんばったからそのおこぼれに授かれるということはない。
自分の人生に現れる世界は、自分一人の決断の繰り返しの上に開かれていくものなのだと最近思うようになった。
だから何一つ手を抜くべきではない。
その積み重ねの果てに、平和な未来が訪れたり、新たな法が説かれたりしていくのだと思う。
もっと言えば、人生には本当に不可能はないのだと言える世界に入って行くこともできるのではないだろうか。
自分の意志の及ばぬ未来であるように見えても、自分の心とまったく関係がないという風には思えない。
それが縁起の理法で出来上がっているこの世界の仕組みなのだと思う。

来年もこの場所にたどり着けるかどうかは分からない。
だから今やっておくべきことをできる限りやりつくしておきたい。
お金がどうだとかいう話はとても小さなことなのだと思う。
取り戻せない時間のなかで今しかつかめない真理をいかにして掴むかという勝負を日々に繰り返しているのが、霊的に見た僕たちの真実の姿なのだと思う。
その観点からすれば、信仰を掴む瞬間というのは人生のなかでも、もっとも祝福されるべき瞬間なんじゃないだろうか。
すべてが滅びゆく限りある世界のなかで、目に見えぬ永遠なるものを選び取れる自分をつくることが宗教における修行の意味なのかもしれない。
目に見えぬ永遠なる世界を求める人々の姿は本当に美しい。
美とは姿形のあるもののなかにあるのではなく、純粋さや清らかさ、透明感そのものなんじゃないだろうか。
信仰空間において聖なる時間を尊ぶ人たちによってその透明度は育まれていく。
見た目を整えるだけでは決して到達しえない美しさを目指して、信仰者たちは聖地を守らんとしているのかもしれない。
そういう神聖な空間が世の中には実際にあるんだということを、たくさんの人に知っていただけるようになりたい。
そして、そうした特別な場所において奇跡を体験したり、自分自身が奇跡の一部として誰かを導く天上界のお手伝いをさせていただくような体験を味わってほしい。
奇跡とは神の愛を知るよすがだと思う。
神に愛されたと分かった瞬間、神のために生きたいと必ず思えるようになる。
それは、男女の愛や家族愛、隣人愛をはるかに超えた、”本物の幸福”を知る瞬間だと僕は思う。
これから奇跡の時代が開かれていくとして、その奇跡の担い手は神の愛を担う存在として、多くの人を真なる幸福へ導く役割があるんじゃないだろうか。
神の存在をより多くの人に感じてもらうための奇跡の担い手。
だから、神体験というか、神の存在をどれだけ感じたことがあるかが、とても重要なのだと思う。
それは説明で伝わるものではなく、心の感動で共鳴させることができるかどうかというところだろう。
自分がこうして生誕館に来て研修を受けているのも、自分だけのためにあらず、感動の触媒として誰かに神の光を伝える役割を担うために来させていただいているんじゃないかという感じがしっくりくる。
そこまで高い意識で来たつもりはなかったのだが、自分一人で悟りを深めてそれで満足できるようなレベルの教えではないという感じがこの研修から受けた印象だ。
役割を背負っている。
責任を負っている。
だからこそたどり着いている今。
そんな自覚を知らずしらずの内に掴ませてもらった感じがしている。
とてもありがたいことだと思う。

あらゆる発展は自己を超えたときに力強く実現していく。
自分のためではなく、「誰かのために」という動機に人間は底知れぬパワーを発揮する生き物だ。
いくら口で言われたからと言って、理屈だけで人間は動けるものではない。
霊的体験(精神的体験と言い換えても良い)を通して実感と自覚が深まったとき、動かずにいられなくなる。
そうした感化力を発揮してこそ学んだ真理知識が本当の意味で生きてくるのだと思う。

書いているうちに、なんとなく自分の伝道の方針が固まってきた感じがする。
理論的にまとめるだけの小さな世界観から脱して、もっと体験的で感動に満ちた「伝わってしまう」伝道。
心が震えていなければ何も伝わりっこないのだ。

法と出会う感動。
主と出会う感動。
主を体験する感動。

信仰による感動を自分自身に貪欲に与えていきたい。
これからはそのように祈るようにしよう。
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