心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

自信

この3月はかなり特殊というか大きな変わり目の過渡期となったのではないだろうか。

今霊調が不安定な状態にあり、依然として過渡期ではあるだろうが、かなり大胆な意識の入れ替えが行われている。
過去に何度かやろうとしてうまくいかなかった試みではあるが、今回はどうやらうまくいくんじゃないだろうか。
自分を信じて乱気流の過渡期に耐え忍ぶことができている。

「信仰という型に機械的に自分をはめた生き方」と言えば少し言葉がきつい感じがするが、どこか不正直で不自然な、”飾り”の部分や、”自縄自縛的な修行観念”を脱ぎ捨てようとしている。

真理は自然なのだから自然に発露するをもってよしとしたい。
計らい心を捨てて、自らの内から自然に湧き上がるような愛や光、優しさ、進化発展の流れに従いたい。


理屈で自分を生かすのではない。
真理と共に偽りなく生きるのだ。


と言うことでとても気楽な日々を過ごしている。
やる気がないと言えばやる気がないのかもしれない。しかし、「もっと頑張らねば」的な強制的な努力を強いる気はまったくない。
やる気がないように感じてしまうのは、これまで自分に課してきた精進に対するきつめの考え方が自分の中に残留しているからだろう。
頑張りすぎくらいに締め付けていた。そういうのも楽しんでやっていたのだけど、いつのまにか楽しくなくなってきてやめた。要するに”そういう時期”を無事終了しましたよというサインなのだろうと、とりあえず都合よく解釈している。


「ねばならない」「こうあるべきだ」などという言葉が過去の日記には多用されている。この呪縛があると乱気流の中で時間を絶えるなんてことはとてもできない。
一時的な不調和不安定乱高下に対していちいち裁き心でもって善悪を分けていては、結局何もせずに「間違いのない人生」を歩むしかなくなる。

せっかく三次元にいるんだから悪霊の2~3体足元に引きずるくらいの覚悟で良いんじゃないだろうか。

ついでだし良いところまで道ずれにしてあげるのも救済の形かもしれない。
魚釣りの餌になったつもりで「釣り上げる」ようなイメージ。あまり良い自己イメージではない気がするが、不安定を許容するにはそれなりの考え方と勇気が僕にとっては必要だ。


考えても見れば、霊的なものの考え方ができず、この世しかない人生観の中で生きている人にとって、自分を信じるってとても難しいことなんじゃないだろうか。
自分自身がそうだった。
ちょっとのつまづき、失敗、堕落、心の不調和のワンシーンを切り取って、自分を責め、傷つき、暗くなったり、やる気を失ったりと、短絡的な自己評価で自分を縛り上げ、苦しんでいた。
この世を真実の目線、霊的視座で見るならば、失敗経験を互いに許容し合いながら、魂にとって必要な経験をいろんな人と一緒に与え合って生きているのがこの世の真実の姿なんだと思う。
普通にこの世かぎりの目で見たならば、許しがたいような過ちも、魂にとって必要があって許されている体験であり、演劇の一幕なんだという実感が高まってきているから、今自分自身の一時的な不調和を許容し、その中で変わることのない普遍的な良心や優しさ、使命感の部分に焦点を合わせ、強く信じようとできているのだと思う。


今、これまで自分に課してきた縛り上げるような修行のあり方を脱ぎ捨てようとしているわけだが、これまでの心の修行の蓄積は今自分を信じる勇気の源泉ともなっている。
矛盾するようだが、今否定しようとしているものが次の扉を開く力を与えてくれている。
そもそもそのような集中的修行期がなければ、霊的認識を高めることはできなかっただろう。ただ、それこそが正しい唯一のありかただと決め付けてとらわれていてはいけない段階が来ているのだと思う。
変化相応に良いやり方を選んでいるのだと思えばいいか。


振り返っても見れば、本当によく頑張っていたなと思う。
そう思えるっていうこと自体が変化の証だなと、今感慨深く気づかされている。
まるで別人だ。


自分と言う人間を観察していて思うが、とても面白い。
”こういう人間だ”というふうに分類することが全くできず、変化し続け、ある意味裏切り続けるから飽きない。

形は変われど道を求め続け、真理と共にありたいという気持ちだけは変わらないだろう。
その変化の軌跡をこうして表明できる強さと輝きが今自分の内に感じられることは喜ばしいことだと思う。



誰かの承認は必要ない。
自分が自分を強く信じられることが、光と共にある証なのだと思う。
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