心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

人生の選択

自分の人生と思っていたものが、自分のものではなかった。
誰かの目を気にしながら調整した枠組みの中で生きてきた。
今もその名残りの中で模索中だけど、本当の自分のあり方をまっさらな気持ちでこれから建設していけるんだと思うととても嬉しくなる。

本当に自分自身がしっくり来るスケール感とリズム感で生きていく。生かしていく。
最大の自己発揮を為していくための意識作り。
与えられた無二の個性を最高に生かして神様のために役立てるには、自分独自のあり方をきちんと見極めないといけない。
今後は意識的なレベルで教団との関わり方がだいぶ変わってくる。
2011年11月23日から支部での活動に参加するようになり、「活動信者」という枠組みに囚われざるを得なかった。
集合想念で大きな仕事を動かしていく組織体の中では致し方ないことではあったと思う。
しかしながらそれは信仰者の一側面を切り取った枠組みであって、当然ながらすべてではない。
考えても見ればその枠組みの中で活動していたのはほんのわずかな期間であって、結局自分のあるべき居場所を的確に選んで”位置”していたように思う。
無理して活動信者っぽく振舞ったこともあったけど、それは本来の自分のありかたから程遠い姿であった。宗教体験としてはとてもありがたい体験であったし、その当時のことを今でも愛おしく感じている。
どうやってもなりきれないのに、そうならないといけないような気持ちでずっと過ごしていたけど、考えても見れば8年近くも”そうなれない自分”のままでいるのだから、もはやそれが答えなのだと断じて、迷うことなく我が道を前進したほうがよほど建設的だろう。
f:id:ssktmnr:20190406201835j:plain
”慈悲魔”という言葉があるが、困っている人、助けを求めている人の求めに対して、「NO」と言えない性分が自分にはある。
「NO」と断ったとしても、助けてあげない自分をどこかで責めていたりする。優しさゆえの苦渋ではあるが、見ようによってはこれは「だらしない優しさ」だと思う。
自分のやるべきこと、自分の使命に対して責任感と確信を持てていなかったから、どうどうと胸を張って自分の道を歩めなかったり、手軽に周りの人に喜んでもらえる善行に流れていこうとしていたのだ。
偉大な事業に参画していけることはとてもありがたいことだったし、心からの喜びでもあった。しかし、葛藤はあった。
本当の意味で「自分自身を生かす」と言うことに対する責任から遠ざかってしまうことへの罪悪感。
「本当はやらなければならないことがある」と言う感覚に対して誠実に向き合えていなかった。
自分自身の自己実現、使命の前進と、組織活動への参加、それに加えて日々の仕事もあり、それらをどういう力の配分で進めていくべきなのかを自信と責任感をもって決められずにいた。
理想の仏弟子であるならば、”こうあるべきだ”という形を自分自身が体現できたなら、さぞかし喜ばしいことのようにも思っていたが、考えても見れば、救いを必要としている側からすればすべてどうでも良いことで、僕自身の自己実現だとか、組織活動だとか、配分だとか言ってないで「何でもいいからとにかく早く救ってくれ」という話なのだ。
姿見の前で一生懸命ポージングしたり、着替えたりを繰り返してばかりして、鏡に映る姿をいかに美しくするかにしか興味を持っていないような状態のままでは何の意味もない。
使命があるなら使命に殉ぜよ。
組織なら組織でも良い。
とにかく救え。
自分にできること、自分がやるべきことを世界に向かって施していくための道は無限にある。
しかして、この世の時間は有限だ。
自分の有限の人生に対してどう責任をとるのかを自分で選ぶことができる。
主が与えてくださった教団の活動の中にその情熱を注いで行くのも、主が与えてくださった自分自身の道において真理の前進に貢献して行くのも、同じ一つの選択だ。
いかなる道を歩もうとも、真理と共に歩むという決意は決して揺るがない。
簡単な話だが、私は「わたし」になるしかないのだ。
救いを必要としている数多くの人に手を差し伸べる「わたし」になるために生きていく。