心のスケッチ  佐々木大記

信仰生活において起きる心の変化や動きをスケッチしています。心の変化後に起きる現実の変化や奇跡といった結果よりも、「どういう心の変化がきっかけで自己変革をできたのか」という原因にフォーカスした描写を試みつつ、あれこれ自由に綴っています。要は信仰に基づく自己変革の実況中継と日々のあれこれです。

自信と愛

■■悩みリサーチから悩み相談へ■■
最近悩みリサーチをしている。
世の中にどんな闇があるのかを知ることでどんな光が必要なのか理解したいとの思いからだったのだが、リサーチというより悩み相談にいつの間にか精を出している。
そういう掲示板がネット上にあったので見ていたのだが、「たすけてください」と書いてあるのを放っておけず、気づいたら4日間で8人の悩みにガチ回答していた。

相談の投稿を見るだけで、放っておいたらどんどん不幸になっていくのが目に見えている人が助けを求めている。
自分にはその解決方法が見える。
これで見てみぬふりをできよう筈がない。

■■利他行の思わぬ収穫■■
悩みは本当に様々なのだが、ありがたいことに、伝えるべき言葉が出てきてくれる。
自分が悩んで学んできた事がここにきて誰かを救う力として蘇り、生き始めている。
自分が経過したあらゆる時代のあらゆる悩みや苦しみが、一人を救う言葉として生かされるたびに、過去の苦闘が報われ、祝福されていく。
奇跡の瞬間だと思う。
他の人を救うたびに自分自身が救われていることに気づかされるのだ。
利他業ってこんなに味わい深いものだったのか。

何より嬉しい感動は、エル・カンターレの教えの救済力を身を持って体感させて頂いていることだ。
今まさに地獄領域に引きずり込まれようとしている人を、本当に救い上げることができるのだ。
ものすごい自信に繋がる。
これは感動というよりむしろ自覚が足りなかったことを反省しなくちゃいけないのかもしれない。

■■教えの価値に対する見くびり■■
自分が教えを学んだだけで満足していた。
自分が自分自身の悩みを解決しただけで満足していた。
きつい言い方をすればそんなとこだ。

自分の悩み経験や学びを生かして、人の心に救いをもたらす作品を作ろうとしていたので、悩みや学びを自己完結させはしないっていう思いは持っていたんですよ。友達の相談に乗ったりしてましたしぃ。
そんな弁明を誰かにする。

現実に苦しみ、希望を見出だせず、孤独の中で助けを必要としている目の前の一人を、「今」救う智慧を、自分は山ほど預けられている。
そのことを充分に理解しないまま、本当の「救い」を描くことが果たして出来ただろうかと考える。

自分が預かっている教えの力を実はまだまだ見くびっていて、過小評価している。
自分の考えの狭さや器の小ささに、主の教えを狭めて閉じ込めている。
本来持つべき「自信」を、”わざわざ”小さなものに押し留めてしまっている。

もったいないことしてるんだなと気づかされる。



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■■教えがもたらした奇跡的な感化■■
悪霊の囁きに苦しめられ、「死にたい」という気持ちに支配されそうになっている人がいた。
具体的に対策をお教えしたら、「不安から救われて涙が流れた」と希望の返事をいただいた。

「同僚のことを死んで呪ってやりたい」と半狂乱状態に陥りかけている人がいた。
自分も同じような気持ちで苦しんでた過去のこと。考え方を改め、自分の心を変えて乗り越えたことを回想しながらお教え(というより誘導)したら、感謝の言葉と共に、「自分も困っている人に手を差し伸べられる人間になりたいです。謙虚に精進します」と、心を改められた。

いずれの反応も、僕の想像の域を超えた劇的な化学変化で、正直「こんなにも響くものなのか」と驚かされた。

■■微差が産み出す天地の差■■
この相談を見てみぬふりをして素通りすることもありえたかもしれない。
「自分の学びや経験なんか、そこまでたいしたことないし、責任持てないよな。」なんて思ってたら、口出ししなかったと思う。数年前の自分だったらそう思ったかも。
少し前の自分であっても、「これは偽善なんじゃないか」と思って逡巡しただろう。

それは、相談者の人生の明暗を決定的に分ける違いだったろうし、教えに込められている偉大な救済力を知りもせずに、小さく扱い続ける愚かな仏弟子でい続けるパラレルとの境い目でもあっただろう。

■■自信の価値■■
そのきわどい境い目を超える要素は「自信」だった。
教えに宿されている救済力に対する過小評価
自分の愛に対する疑い心
いずれも自己信頼を妨げる「我見」だ。

「謙虚」という言葉を隠れみのにして、自信を持てずにいることは、仏弟子として怠慢であり、無責任であり、罪なのだと思った方が良いのかもしれない。
それだけの重要感と決意を持って、自信に関する自己変革をしていく価値はある。

目の前の一人を救いあげることができた喜び
主のお役に立てた喜び
人様の運命に責任を負う意識が産まれ
真剣に祈らずにいられなくなった。
何も見返りはいらないから、伝わってほしい。助かってほしい。
伝えるべき言葉をお与えください。
差し伸べた手が届きますように。掴んでいただけますように。
手を握り返してもらえたときの喜び。安堵。
天使たちへの感謝。
主への感謝。
相談者への感謝
「与えさせてくれてありがとう」
「もっと与えられる人間になりたい」
心が豊かになっていく。

こういう幸福を手にするチャンスを仏弟子として頂いているんだと知るにいたる。


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■■自信なき自分■■
以前僕は自分の善意や愛をどこかで疑っていた。
自分は本当にこの人を愛し、施しを与えようとしているのか、それとも偽善的なのか。教条的な義務感だけなのではないか。かっこつけたいだけじゃないのか。善行をすることで自分を安心させたいだけじゃないのか。
そんな疑いが自分自身を肯定できない観念になって、豊かになることや、成功していくこと、希望を実現すること、幸福になること、人を愛すること、あらゆる発展を妨げる重い足かせになっていることに中々気づけないまま何年も過ごしていた。
発展のイメージを強くありありと描くことが苦手だったり、明確な目標設定が苦手だったりするのも、全て自己信頼の欠如を起因としたものだったと思う。
「これは欲なんじゃないだろうか」
少しでもそんな気持ちが現れると、間違った発展を恐れ尻込みするのだ。

■■自信を養うために■■
ここ数ヶ月の間のどこかのタイミングで僕はこの疑いを完全に払拭した。
どこだったろうか。
記事に残したような気がすると思って振り返ったらあった。
ssktmnr.hatenadiary.jp
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「やらねばならない」とか「やるべきだ」っていう縛りつけるような思考を捨て去って、自分が心から望んでいる道を確かめた。
随分遠回りなやり方だったと思うが、要は「自分」と「自分の仏性」との信頼関係を修復したのだ。
そして、自分自身で自分の生き方、或いは人生に対する姿勢を決めることにした。
誰になんと言われようとどう思われようと関係ない。
仏性に対する信頼に基づいて、「仏の子として自分がどう生きるか」という問題に対して全責任を負ったのだ。

永遠に輝ける自分の仏性を信じることができていないと、いくら実績や評価を積み上げても、張りぼての自信にしかならない。
張りぼてにあたる部分を積み上げて大きくしていく努力も大切ではあると思うけど、実績や評価に頼らない仏性に対する揺るぎない信頼を持ってこそ自信は本物になる。それは、「仏の子である人間は仏の性質が宿されている」という教えに対する信仰があって唯一成り立つ自信でもある。
本物の自信という不動の土台があったからこそ、何の実績もない自分が深い暗闇の中に攻め入って、迷い苦しんでいる人に救いの手を差し伸べることができたのだ。

■■天使たちと共に■■
エル・カンターレ信仰に基づく自分の仏性に対する信頼はもっともっと深めていけるだろうし、それは終わりのない修行として持ち続けなければ、救済力を小さく押しとどめてしまうことになるだろう。天上界はそんな小さな自己満足を信仰者に望んではいないはずだ。
仏性に対する自信という揺るぎない土台の上に、信仰の柱を立て、真理の骨組みを張り巡らせる。そして、実績による自信という社会的信用を外壁のように組み合わせていくことで、より多くの魂を主の光で守る「砦」、或いは「神殿」を心の中に建設していくイメージを持とう。
数多くの悩み相談を見聞し、自分自身がその現場で実際に動いてみて思ったが、天使たちはこの地上に救済の手を差し伸べるための窓口を求めている。
それを担うことが出来るのは、主のもとで真実の教えを学んでいる信仰者以外にない。
自信に満ち溢れる信仰者の心に神殿を築き上げることで、多くの天使たちの求めに応えることがきっと可能になる。
自分一人の自己実現のために自信が要されているのでは断じてない。
光と闇がせめぎ合う中で、今にも地獄領域に落ちていこうとしている人たちがいる。
小さくあってはならない。
自分の愛を疑ってはならない。
多くの人たちがよりどころとできるような立派な人間を目指してゆきたいと思う。
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