心のスケッチ  佐々木大記

真理探求の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学を現在制作中。近々電子書籍で第一話を発表予定。(2019.09.27)

大きく自由な心

今自分に求められている姿勢は、マイナスをも呑み込みながら進んでいく大きさなんじゃないかという気がしてならない。
善悪という分別的な考え方を超越した「愛」の世界を体現すること。


それは悪を去り善を取る考え方と矛盾するような気もするけど、違う。
その前提として、悪に対しては許しや慈しみといった「情け」の心を背景にもつこと。
そして、同じ船に乗せていくだけの度量、雅量を持つ。
というより、事実として、同じ船に乗ってずーっとこの世界を旅しているのだ。


悪を斬り捨てて、穢れも濁りもない清潔な自分になることは、求められていない気がする。
すべての中に純粋なものがあることを自分が心底信じられていれば良い。
如何に今現在悪に見えようが、ネガティブに分類されようが、それは、長い時間の中でそうした役割を演じている一時点の姿に過ぎず、その本質自体には穢れも濁りも一切なく、すべては光へと向かって進んでいる。
その透明無垢な本質を見続ける、限りない慈愛と信頼の眼差しが見る世界こそ、本当の「透明な心」なのだと思う。



あなたは本来 光


あなたは必ず 光となる



その心一つですべてを受け止めると決めた瞬間から、世界は変わって見える。


すべてを許せる。
というより、「すでにすべてが許されている」という観点が出発点となるから、すべてを遠慮なく愛することができる。
「裁かなくてはいけない」「許さなくてはいけない」という思い込みを脱して「許されている」という観点を得ると、「愛する自由」を手にすることができる。
愛して良いのだ。
愛だけに基づいて、悪を去り善を取る一歩を今日に見出すだけでいい。
裁き心に基づいたそれとはまったく違う、肯定的な世界が映し出される。
こんなハッピーな世界感はない。


人はどこからでもスタートして善くなって行けるし、それが許されている。
進歩の過程で今どこにいるかをもって自分や他人を罪人扱いするような必要はなく、すべての人を光へと向かう肯定的な存在として、愛して良い。
それぞれに今求められている「一歩」を共に進めようとしているという意味で、同じ今日という時間を与えられ、生かされている仲間なんだ。

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自分自身まだまだ本当に至らない、だらしないところだらけの未熟な人間だ。
だけど、その自分で良い。
そのあなただからこそ良い。


どんなに転んで泥をかぶろうとも


心を曇らせようとも


変わることなく
一心に光を求め続けた
そのひたむきな心で


善も悪も
光も闇も
清も濁も
すべてを包み込んで


その大きな心で
虹色の河を渡り


彼の岸へと船を進めていけ


そのあなただからこそ大きな愛の器を体現できるのだ



この頃、自分という人間の濁った部分や至らない部分を見せつけられる中で、いかに、自分の内に宿されたる「光り輝ける本質」を信じ切ることができるのかを試されているような気がする。
そんな中で、至らぬ自分を裁くような気持ちで反省し、取り繕うように心の浄化に精を出すような感じってなんか違うなと感じている。過去を振り返るとそんな感じだったなと思う。


どんなに至らない状態であっても、その内に宿している本来の穢れなき純粋な思いを信じ、その光を外へ向かって強く放射していくような、そういう人間像を体現していけば良いんじゃないだろうか。


信じることで、自分の内に宿されているそれだけの強い光が出て来る。
許すことでそれだけの大きな器と肯定感覚、自信がみなぎって来る。


日々心の窓に生じる曇りを見つめひたすらぬぐい続けるより、内なる光を見出すことによって曇りそのものを溶かしていけば良い。



あなたが内なる光を外へ放たんとするとき、外なる光もまたあなた自身を照らさんとしている。
内と外の光を結ぶものは、いかなる濁りや汚れにもとらわれることなく、本来の自己を信じ切る強い心。
惑わされてはいけない。


光が強く放たれていく過程で影が濃く見えるように感じたとしても、それは本来存在しないものだ。
自我によって意味付けすることでつくり出している影を「見つめ続けている」ことで、それが本当にあるかのように錯覚しているに過ぎない。
本当は遠い過去に通り過ぎようとしているはずの「終わったこと」を終わらせずに、いつまでも心の景色の中に「わざわざ」描き続けているだけだったりする。


過ちに対する執着は美徳ではない。



こだわる心にとらわれるとかえって淀みを作り、心を濁らせる。
こだわることなくもっとサラサラと流れ去っていくことで、透明度は自然と増していく。
狭い淀みだけを見つめるのではなく、ダイナミックに流れ続けている川全体に目を向けると、その淀みがほんの一部分でしかないことに気が付くことができる。
大きな大きな目で人の本来の姿を見ることで、一時濁っていた自分が懐かしく感じられるほど、遠く小さな一点になっていく。


「心って意外と自由かも」
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世界の見方が全然違っていくような不思議な感じがする。
俺ってけっこう自分や他人を裁いてたんだなと、今気付かされている。
気付けるってことは、やはりそれなりに高い視点に繋がっているんだろう。
これきちんと掴みたいな。。