心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

一歩を知る

与えられた一日のうちにできることは限りなくささやかな「小さな歩み」にすぎない。
もし何かしら少しでも前進できたことがあったのだとしたら、その前進が許されたこと自体が感謝すべきとてもありがたいことなのだと、このごろ思うようになった。


一日に多くを求め、それを叶えられない自分に失望しているようなところがこれまではあった。
それは自分に対する厳しさではなく、隠れた傲慢さなのだと思う。
少しでも前進したいと望む心の中にある砂塵。
透明ならざる自我。
それは「自分の力を証明したい」という欲だろう。
故にもっと進みたいと思う気持ちが混ざり込んでしまう。


その透明ならざる心のままに前進して何かを達成したとしても、あとに何が残る?

「俺がこれだけやったんだ」という増大した自我。
誰かに認められることを求め続ける「奪う心」。
そうなるくらいならば成功はむしろ魂にとっての退化となり、新たに悪しきカルマを生み出すことになるだろう。



前進せんとするその心に分不相応な欲が混ざり込んでいると、結果を焦る貪りの心がどうしても出てくる。
その結果歩むべき順序を飛び越えてでもゴールにたどり着こうとする。
歩幅をはるかに越えている大きな水溜りをも飛び越えようとして、失敗して泥まみれになり、失望する。
そんな自分の姿が見えてくる。



分不相応な欲を克服するにはどうしたら良いのか。
それが、足ることを知ることであり、許されたささやかなる前進に対する感謝ではないか。


大きな前進に自信を深めようとする焦り心を捨て、小さな小さな積み重ねの中に、それを成さしめて頂けたことへの感謝の心を返していく。


それは小成するということではない。
「これくらいの小さいことは自分にできて当然である」という無意識に犯している感謝の欠落を正し、お返しのための前進、お返しのための向上の意欲を高める、「発展を含んだ心の浄化」だ。


透明な心で歩んでいくために感謝の心が必要なのだ。
小さな歩みを尊び、感謝の気持ちを忘れずにいられたなら、一歩一歩は宝物となる。
そこに分不相応な前進を望む貪りの心は共存できないだろう。


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今の自分はどこにいて、今日一日においてどこまでたどり着くことができるだろうかと言うことを、ときおり考え、「今日一日の分限」の中でできることに力を注ぐ。
思ったよりも進まなかったり、或いは予想以上に進むこともあるので、そのつど今の自分がどこにいてどこまでの前進が今日において許されるだろうかと考える。


はるか遠い理想と現実のギャップに意気消沈するでもなく、焦るでもなく、「今求められている一歩」をきちんと進め、やるべき仕事を積み上げていく。


理想が実現していないことに「今」わずらうのは、やめよう。


それぞれの理想にはそれぞれに相応しい時間がある。
10年でたどり着くべき理想を1日に求め、苦しむのは愚かだ。
今には今の成功がある。


10年先を見据えたうえで、今許される一歩、今許される成功は何か。


それは、具体的な行動としての前進を意味する場合もあれば、「心を調える」という精神的な準備を意味する場合もある。


ある人にとっては「どうしたら今より良くなっていけるだろうか」と考えをめぐらせることが今許されている一歩になるかもしれない。


ある人にとっては「自分の理想ってなんだろう」と考え始めることが一歩になるかもしれない。


ある人にとっては健康を調えることが、今求められる一歩になるのかもしれない。


中には10年必要とされる理想を3年でどうしても実現しなければならないという場合もあるだろう。
その人にとっては知恵を身に着けることによって、歩幅そのものを広げることが一歩になるかもしれないし、有力な協力者を探すことが一歩になるのかもしれない。



目指すべき理想に対して今自分はどこにいるかを知ることによって、その一歩を見出し、今日なすべきことをなし、感謝と共に昨日までの自分が積み上げた仕事の上に積み重ねる。


積み重ねたものが崩れたときは、なんで崩れたかを考えることが、また要求される「一歩」になるかもしれない。



終わった昨日やまだ来ない明日を生きることはできないのだ。
今日に足ることを知って感謝をし、明日に悪しきカルマを残さぬよう反省すべきは反省する。


そのような考え方で生きていきたい。


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