心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

もっとも大きな前進とは

有給消化をしたくて事前にとっていたお休みだったのだけど、なんの予定も入れず放っておいたので休みをとったこと自体忘れてしまっていた。
逆によく思い出したもんだなと思ったくらいだ。
電車の中ではショパンを聞きながら久しぶりに精舎修行でもしたいなと思い、精舎スケジュールをチェックしていました。
shoja.jp
なんせ10月には完全無職になるので、泊りでどこかに行くチャンス。
涼しくなって旅行には良い季節だろうなと考えていたら楽しくて楽しくて、今日が休みだなんてこと全然気づけなかったのです。
せっかく新橋まで来たのだからどこかに寄って帰ろうかとも一瞬思案してもみたけれど、別にいいやと思いそのまま帰って自宅でお弁当たべました。
以前の自分であれば悪あがきよろしくどこか精舎に立ち寄るとか本屋をのぞくとかしていたと思うけど、そういう気持ちなかったな。
「失敗を取り戻そう」っていう考え方が当時はあったのだろうけど、今はこういうダイナミックな間違いであってもそれを「失敗だ」と感じていない。
ちょっと体を動かす良い機会だったかなと思うくらいで、心置きなく自宅に引きこもろうという気持ちになれたのでちょっとラッキーだったかも。
明日がもともと休みだったので、もしかしたらずっと自宅に引きこもって執筆し続けていたかもしれないし、これはこれでありだと受け止めたのだった。


さて、執筆活動はじわじわと進んでいて、もうすぐ出すぞという勢いでやっとるのですが、意外なところに修正点を見つけてそこから新たな表現が出てきたりと、なかなか出来上がりそうで出来上がらない状態にあります。
本当に緻密でじわじわとしか進めていけない繊細な仕事なのだなと感じ入っております。


着想を読み手に伝わるような文章に変換する作業はとても想像力と忍耐を要します。
早く完成させたい気持ちが邪魔をして、今見るべきものに焦点が合わなくなっていることが多分にあり、あとから抜け落ちている部分に気づいては引き返して修正し、っていうことを繰り返している。
執筆に限ったことではないのだけど、結果を焦るあまり、今現在の恵みに気づけないといったことがたくさんあるものだと思う。


一日一日を一生として生きるよう心掛けるようになってから、過去でも未来でもない「今」という時間に与えられている恵み、あるいは「今日の魂の課題」という観点で物事が見えるようになってきた。
老荘思想的に言うなら「道を楽しむ」という言葉になるのかもしれないけれど、たしかに道の中にこそすべてがあるのであって、目的地にあるものは道を歩んだ余韻だけなのかもしれない。


旅にしてみても、例えば精舎に辿り着いて学ぶことが目的の一つとなるのだと思うけど、実は精舎のスケジュールを眺めてワクワクし出したときから道は始まっていると言えるだろう。
様々な選択肢の中からどの日のどの地方のどの研修を選ぼうかと想像を膨らませているときに、すでに運命の歯車が回り始めているのであって、このかすかな選択の違いによって生まれるたった一つの物語が、研修当日までの間にも与えられるのだ。
「どこで何をした」という結果は透明な箱のようなもので、そこに至るまでの道の中で、その箱の中身を詰め込んでいけるのだと思う。
空っぽの箱だけ求めて今与えられている恵みに目を向けないでいるのはやはりもったいないことであると思うし、もう少し違う視点で見るなら、今の恩恵に目を向けて感謝を重ねることでしか、本当に求めている形は現れてこないのだとも考えられまいか。
勘違いして休日に職場まで行ってしまったことを失敗と見るか、今日だけに特別に授けられたサプライズと見るか、その心の選択によって出来上がってくる形、あるいは透明な箱の中に詰め込まれる中身は変わってくる。
効率性の観点だけで物事を見るなら僕の人生は失敗まみれでもしかしたら不幸の連続に見えるのかもしれない。
しかしそのたくさんのつまづきの中で発見したきらめきが多かったというのが事実であり、そのきらめきは思い出のように通り過ぎることなく、人生を幸福にさせる心の糧として残り続けている。
人生の歩みが思うようにいかず、その展開の遅さになさけなく思えることがあったとしても、実はその中に、そのスピードの中でこそ見いだせるきらめきが与えられているのだと思う。
今日掴むべき学び。
今日与えられている恩恵。
明日には手に入らない瞬間の美。
今差し伸べられている手
そういうものを見つけられる一日であったなら、如何に小さな歩みであったとしても、ありがたいと思える。
今日の自分として今日に期待される役割をきちんと担わせて頂けたのだと思えば、充分に足ることを知ることができる。


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自分の歩みは小さかったと、ケチをつけるようなところがかつてはあった。
「もっと進みたかった」
「もっと良いものをつくることができた」
「力が足りなかった」
そういう厳しさも必要かとは思うが、すべてが神仏の恩恵によって許された歩みなのだから、いかなる結果であろうともうやうやしく受け止める敬虔さも持っているべきだよなとこの頃は思えるようになりました。
大きな歩みも良かろうとは思いますが、もっとも大きな前進は小さな小さな一歩に感謝できる心の獲得でもあろうと考えても良いのではないでしょうか。
その心はいずれ必ず偉大なる結果へと自分を誘ってくれるものと確信しております。


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