心のスケッチ  佐々木大記

真理探求の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学を現在制作中。近々電子書籍で第一話を発表予定。(2019.09.27)

努力即幸福 or 餓鬼道?

地元亀有はお祭りで賑わっている。
それは良いのだが、よそから神輿担ぎに来て夜な夜な酔っ払ってさけびながら喧嘩するのは勘弁してくれと言いたい。
この頃は夜型生活だし睡眠に支障はないのだが、地獄を除きながら生活してるみたいでいやだ。
とはいえ相手も人間。
酒でドーピングして元気を前借りしているだけで、いつまでも騒ぎ続けられるわけもない。
祭りに関係なく普段から酔っ払いが叫びながら暴れていることが度々ある地区なので、なんとなく先が読める。
「あと、1~2時間てとこか。哀れよの。」
などと思いつつ本多静六博士の霊言をもくもくと読んでいた。


ものすごく元気になれた。


自分の力で運命を切り開く志を立てる
言い訳を大きくせず死ぬまで努力し続ける
根性でやってのける
神様のお手伝いをさせてもらう喜び


こういう心意気で歳を重ねていきたい。
本多静六博士は人生計画を立てて120歳まで努力し続けるつもりで生きていたようだ。
そこまで腹が据わっている人にとって怖いものは何もないのかもしれない。
「なんでもこい」って感じなんだろうな。
そういえば前回恐怖心の課題を見つけたのをきっかけに、僕も「なんでもこい」って感じになってきてる。
ssktmnr.hatenadiary.jp
何が問題なのか分かってしまえばその時点で解決したようなもの。
何事にも振り回されることなく姿勢を崩さない不動の信念を掴んでしまえば案外強くなれるものなのかもしれません。


目の前の小さな現実ばかり見つめてとらわれていたなと思う。
目の前の出来事に反応して翻弄される状態にここ数日陥っていた。
あるべき本来の自己像を描けていたからこそ本多博士はすばらしい実りに努力を結びつけることができたのだと思う。
その点足りてなかったなと反省。


自分に足りない個性に触れて感化されることも、ある意味反省になるのだなと感じた。
内省的に反省して心の偏りを修正するのは傾向性がある故に難しいこともある。
偉人の個性を心の中にブレンドして、バランスをとりつつ新しい味を作っていくのもやり方としてありだと思う。
その前提として自分の弱みや問題点を知っていなければならないので、その点をごまかさずに見破るための誠実さは必要となる。


振り返ってみればここ最近は、自分の弱さを受け止めるような数日間だったような気がする。
飾ることなく、ごまかすこともなく、自分の小ささを認める瞬間、「それで良い」と許されている感じがした。
これで誠実に努力していけるんじゃないだろうか。


近所で夜な夜な大声を出して暴れているやからを思い出す。
朝には哀れにしぼんでるような見せかけの強がりほど無様なものはない。
それと同じようなことをしているときが自分にも大いにあると思う。


寝ても覚めても変わらずに続いていくような淡々とした努力、死ぬまで貫く誠実な自分造りをできる人になりたい。
自分を大きく見せようとするような虚栄心に基づく努力って、虚勢を張っているのと同じで、実は自己否定の産物なんじゃないかという気もする。
自分の欠落感覚を必死に補おうとしている感じ。
それもまた成長の原理として認められて良いのかもしれないけど、ありのままの自分自身を認められないから努力して何かを付け足さずにいられないというのは、やはり不幸な感じがする。


お酒や麻薬やネットサーフィンとか何でもいいけど、そういうのと同じように、現実逃避の道具として努力に執着している部分が自分にはあったと思う。(それがすべてというわけではないけれど)
おかげでいろいろ勉強させてもらえたっていう効用はあったけど、何も持たない自分自身を認められず、付け足すものを永遠と求め続ける姿って、もしかしたら餓鬼道に通じているんじゃないだろうか。
ja.wikipedia.org


そうじゃなくて、等身大の小さな自分として「努力の神様とともに歩む幸福」っていう幸福論があっても良いんじゃないかと今は思う。
努力を自分のものとせず、神仏の恩恵としておけば、謙虚でいられるだろうし、皆と同じ「仏の子ども」としての純粋な自分を見失わずにい続けられるんじゃないだろうか。
強がらなくて良いというのはとても楽ですし、そのままの自分を愛せる状態でいること自体が誰かの救いにもなるんじゃないかという感じもします。


そんな感じでやってこっかなーと思います。

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