心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

創造的清貧

2019/09/28
27:53

実は8月あたりからひそかにイエス様系統の思想にとても惹かれていて、関連の霊言を紐解いてみたりしながら心の探求を深めさせてもらっていた。
どうやら、イエス様の霊流が活発化しているらしいと知り、ムム⁈って感じもしているのだが、そういうことはよくある。
ジェームズ・アレンからとくに感化を受けていて、小さきものとして清らかに生きるということを、自分の目指すべき指針としている。
彼は大富豪に影響を与えた成功思想の源流にあたる存在と言われているのだが、彼自身はこの世において経済的に豊かであったわけでもなく、ただただ人生を美しからしめることを望んで生きていた。
真に霊的な幸福とは何かをしっている心の支配者であり、真の意味で成功者と言って良いだろう。
それは、人間がいかに小さく、神がいかに偉大であるか知っていた人が語っている真実であったのだと思う。
人間はともすれば自分自身の成長だとか、自己実現だとか、自己発揮だとか、とにかく自分を大きく育てようと必死になるものだが、心の景色において自分を大きくすればするほどにその視界には自分以外の大いなる存在、大いなる恵みというものが見えなくなっていくものなのだとぼくは思う。
成長していくことは大切なことだが、それは自分自身の持ち物を増やすことを意味しているわけでは本来ない。
豊かさや知恵と言ったものは霊的な共有財産であって、その引き出しの場所を知ることが、人間にとっての成長の姿なんじゃないだろうか。
自分自身が大きくなったり、なにかを飾り付けたり、たくさん所有できるようになることが本当の意味での豊かさではなく、むしろ、飾りを取り外して磨ききった清らかな魂、主がお創りになられた純粋な輝きを体現して大いなる叡智に繋がることが最高の自己実現の姿でもあるのだと思う。
そこにある「自分」なるものはかぎりなく小さく透明で、何も持たず何も求めていない。
つまりは「清貧」。
清らかな貧しさを体現した姿なのだと思う。
経済的に貧しくなることが清らかになることだという解釈でこの言葉を使うなら、清貧は目指すべき信条とはならないだろうけど、そういう形式主義ではなく、執着を去った透明な心、飾りを求めずに、清らかで純朴な魂の輝きのみを求める心を目指している。


いくつかの記事の中でも少し触れているが、9月に入ってからの出来事のなかで、この世的な欠乏感や劣等感によって、足ることを知らないむさぼりの心に取りつかれたり、他の人に自分の自尊心を害されることを恐れて虚勢を張りたくなったり、そのままの自分を否定して、本来の自分でいられなくなるような傾向性を発見していた。
そういう流れと軌を一にするように、本当の意味での清貧の思想に思いを深めていた。
結局、他人との比較の中で自己評価を低くして、不当な劣等感によって自分を苦しめ、欠けている部分を穴埋めしようとしていたのだと理解している。
清貧とは、思うに、他人との比較の世界と決別した、絶対的な充足の境地なのだと思う。
そこに欲っするものはないため、餓鬼の如くむさぼることもないし、自分を害そうとする人が現れようとも、なんの奪われる心配もなく、ただ愛する姿勢を貫ける。
悪霊からすれば「取り付く島もない」って状態だろう。
経典『悟りの挑戦』にもあったと思うが、おのれを空しうし、無我となることで仏と一体となるという仏教的精神に通じるところもある。
この境地は他人との比較の世界から抜け、競争の外に出るため、非常に独創的であり、創造性が高まる境地であるのだと思う。
僕自身個人としての自己実現に対するこだわりがかなり薄れてきていて(なんせ求めないので)それでいて清らかさを求めていくと、結果として神様のお役に立ちたくなってくるため、自分の創造性がとても公的な方向に働こうとし始めている感じがある。
なので、単に自分の作品を発表するのではなく、世界に向かって発信したいという意思が強く働きだしているところがある。
この動機の部分が私的な領域から公的な領域になっていくほどに大儀が立ち、やる気が湧きおこってくる感覚がある。
先生は経営哲学として、なぜ我が社は生き残る必要があるのかを説明できることを重要視していたと思うが、自分自身が世に出ていくことの大儀というものは、厳しい創作活動に耐えてタフに勝ち上がっていくうえでどうしても欠かせない要素であると思う。
それは、創作活動に限らず事業経営や、学業であったり、さまざまな挑戦において必要となる土台だと思う。


自分一人のために頑張ろうという気持ちにはなかなかなれるもんじゃない。(ぼくの場合)
なんせ自分がこの世的には何も求めず、小さきもので良いと思っているのだ。
自分一人を想ううちは、何もやる気が出てこないだろう。
今は大いなる理想の一部として自分の力を何らかの形で注がせていただきたいという気持ちになっている。
「清貧」という言葉のイメージに対する自分の心のとらわれを外して、再度霊的な真理として見直していると、この言葉はなんだか、とても高い公的創造性に繋がるキーワードのようにも思えてくる。


29:15

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