心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

霊性と想像

見た目や確認できる事象だけに目を奪われて真実を見誤ってはいけない。
まだこの世界に事象として現れていないからと言って、「それ」がないとは言い切れないのだ。
今まさに、「それ」はこの世界に実在を証明せんとしている。
見誤ってはいけないのだ。
想像の力を五感以上に働かせて感じなければいけない。
「それ」があるかないかを知る手立てはそんなに難しくはない。
想像できれば「それ」はある。
想像できなければ「それ」はない。
すべては自分の思いがつくり出すものなのだ。
現実を追うな。
現実の中に生きようとするな。
現実は創造するものであり、従わせるべき道具でしかない。
現実は心の中にあり、自己を越えて存在するものではない。
騙されてはならない。
時間も空間も幻覚のようなものであり、とらわれるべきものでは本来ない。
すべて思いなのだ。
姿や形も実在ではない。
人間の肉体は空気を入れたゴム手袋の指の一つのようなもので、根っこでは他の指と繋がっている同じ一つの息吹きがつくり出した「形」の一つに過ぎない。
故に本質において自他の垣根はない。
数十年この世界で生きている間にその「形」が自分であるかのように勘違いして死んだ後もしばらくの間は同じような形で活動するらしいが、やがて本来自分は姿形なき「思考せしエネルギー体」であることを思い出し、ゴム手袋にある一本の指として形状を留めて存在することはなくなっていく。
肉体を失ってもなお肉体に替わって形状を留めているものとはなんだろうか。
肉体特有の意識の面影。
残像感覚のようなものなんじゃないだろうか。
その残像を残す肉体そのものもまた意識体であり、人間の本質的意識とは違う低位の意識、「自然意識」と言って良いものかもしれない。
人間はこの世においてはよく、この肉体意識が自分の意識であるかのように錯覚を起こし、行き過ぎた快楽こそ自分の喜びであるかのように勘違いをしてしまうこともある。
だが本来心はそのような道具にとらわれて主導権を失うべき立場にはない。
善悪の区別をつけられることが意識体として高位である証なのだ。
肉体意識の欲求に善悪などの価値判断はない。
肉体に依存しない高位の意識によって主導される道具であり、従わせるべき部下である。
ゆえに私たちは肉体意識による行き過ぎた欲望を克服することが必ずできる立場にある。
さらには、肉体を越えて、この世におけるあらゆる現実からの支配をも克服できる立場にある。
何が高位であり何が低位であるかを知り、確信することによって、高度な判断能力を有する意識体としての自覚を目覚めさせ、あらゆるとらわれからの支配を脱することが可能となる。
善悪の価値判断を得ることができていない現実に翻弄されるということは、まだそのくびきの中に自らもその意識を閉じ込めているということだ。
騙されてはならない。
すべては思いの中にある想像の移り変わりの途次にあって、この世界で目に映っているものは、その移り変わりの中で可視化されているほんのいっときに過ぎない。
想像の一工程に過ぎないのであって、本質は想像そのものにある。
想像なくして創造はない。
創造もまた想像の一工程であり、想像のもとに従うべき力である。
私たちに想像ができるならば創造はすでに始まっている。
「それ」が姿形として具象していないことをもって「それ」が存在していないなどと言うことはないのだ。
だから想像によって「それ」を実態あるものとして形在らしめていかなければならない。
多くの人にとっても、そのすばらしい宇宙でたった一つのかけがえのない創造は、神の片鱗を新たに知る祝福の瞬間であり、自らを創り出した存在の偉大性を発見する瞬間でもあるだろう。

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