心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

自分と向き合う日々

自分自身が生涯においてもっとも長く、深く付き合うことになる他人は、「自分」なのだとこの頃思う。
「他人」ではなく「存在」という言葉に置き換えた方が分かりやすいのかもしれないけれど、やはり「他人」という少し突き放した表現の方が言いたいことを伝えられる気がする。
今ものごとを考えたり思ったりしている自分とは別の「自分」を感じられないだろうか。


他人に対して何らかの態度を示し接するように、普段から一定の態度を示し、接している「自分」が存在しているのだ。
外向きに取り繕ったり、本音を控えたりしながら現実世界に調子を合わせて存在させている自分ではなく、生まれてからずっと存在している心のなかの「自分」と言えば理解できるだろうか。
そのように考えるならば、「自分」とは人生で最も大切にすべきかけがえのない友人であり、先導者であり、生徒であり、協力者であり、死を迎えるそのときまで共に歩む愛すべき尊い存在となる。
にも関わらず、「自分」という存在に見向きもせず、外にばかり目を向けて生きていたような気がする。


外向きの自分と内心の自分とで、ギャップがない人にとっては「他人」という突き放した表現は適切じゃないのかもしれないが、僕自身は外向きの自分と内心の自分との間の違いがかなり大きく成長していて、もはや他人と言って良いほど違う人間が実在している。
一応常識的にさらけ出しても良い範囲というものを心得ているつもりではいるので、相手の理解が追い付く範疇で外向きの自分を出すわけだが、その調節がこの頃非常に面倒くさいというか、茶番劇でもしているかのような感じがしている。


これまでは自分の本心や心の世界よりも、現実を中心としてものごとを考えて、そこに自分を同調させて生きてきた。
しかし、ここ最近は自分の本当にやりたいことと、現実の世界でやらなくてはならないこととの「ずれ」がかけ離れすぎているように感じられる。
これまでは、そういうことに目をつむって現実をある程度甘受しつつ自分のやりたいことをどうにかやっていこうとしてきたのだが、そうもいかなくなってきている。
今の実感としては、現実などという曖昧なものよりも、自分の心にある世界の方がよっぽどリアリティがあるのだ。
人生において最も大切にすべき自分という存在を無視して現実に同調することは、もうできないんじゃないだろうかというくらい、人生観が変転しようとしている。
そんな中で新しい仕事を探しているのだが、外向きの自分でいろんな人に会って自己紹介を繰り返しているとすっごい疲れる。
毎日が茶番劇のようで、とても嫌になる。
今年最大の試練というか、これまでの人生史上最大の試練なのかもしれない。
本当の自分というものをはっきりと認識していくほどに、この感覚は高まっていってしまうのだと思う。
全部ひっくり返してさらけ出して生きていけるような感じにならないと、きついのかもしれない。
心のなかで耕していた世界に蓋をしないで生きていける足場を現実世界にひろげ、根を張っていかないといけないんだろうな。。


外向きの現実的な自分よりもリアリティのある内面の自分こそ実在の自己なのだ。
これは水面下にあれば良いと思っていたのだが、ここまで実在感が出てくると、そうも言っていられないようだ。
かといって、水面下にあった自分の居場所をこの現実世界のどこにも作れていないので、どうしたものか。。
とにかく作品どんどん出していくってことと並行して、そういう活動をしやすい環境を作っていこうぜっていうことなのかもしれない。


こんな精神的な疲れがやってこようとは思いもしていなかった。
現実と内面の二つの世界を疑問もなく行き来できていた少し前までの自分が懐かしくうらやましくもある。
今だって何か大したものを背負っているわけじゃないけれど、今まで本当に気楽に生きていたんだなと思う。


文章をつづりながらだんだんと自分が最近なんで苦しいのかが理解できてきた。
不思議なブログだ。


あてどなく浮かんでくる言葉を連ねてきたが、「本当の自分との関係性」っていうところを見つめるべき時なのだと思う。
限りなく正直で誠実な気持ちで自分自身と向き合っているからこそ、無意識にごまかしていた部分が浮上してきて苦しみが生じているのだとも思う。
苦しみの意味は様々あると思う。
道を外して不調和を生み出した結果としての苦もあるだろうが、試練に立ち向かうことで甘受している苦もある。


がんばろう。