心のスケッチ  佐々木大記

真理探求作家の日々のひらめきを綴ってます。愛と幸福をテーマにした児童文学「ジル」を電子書籍出版で連載開始。http://pr4.work/3/jill(10/24)

丁寧に大切に

案外自分は正直に生きていなかったのだと気づく。


自分の気もちより、見栄えの良い理想を語り、そこに自分を合わせる。
そんな考え方と行動の組み合わせで生きてきたんじゃないだろうか。


2日前から経典『鋼鉄の法』をゆっくりじっくり読んでいてそんな風に思った。
毎年一冊ずつ『伝道の法』『信仰の法』といった形で法シリーズを頂いているけれど、今回の『鋼鉄の法』はやけに自分自身に重く迫ってきているように感じている。
「あなたのことですよ」と、自分自身に語りかけられているような気がして、簡単に先のページへ進んでいくことができない。
何度も前のページに引き返して読み直すのだけど、ときどきハッとするような言葉を「発掘」する瞬間がある。
まだ、二章までしか読めていないのだけど、本当に読みごたえがある。


このごろ「丁寧に生きる」という言葉が自分の中でキーワードになっている。
一か月前くらいからなんとなく気に入って、「丁寧な暮らしをする餓鬼」というツイッターアカウントをフォローしているのが何気に影響している(笑)
暮らしの中のこまやかなことを大切にしながら生きるって幸せなもんだなと思う。
とくに、一人暮らしをしていると家事を全てこなしつつ、信仰生活だったり、仕事だったりを進めていくので、やることが多い。
気もちが荒れて来ると、かならずそれらのうちの何かが雑になっていき、心の荒れ模様が目に見える形で現れてくるところがある。
そうなってくると、暮らしの中のちょっとしたことを楽しむ気持ちが薄れていき、心が貧しくなっていく感じがする。


豊かさや美しさは、季節の移ろいと共にある平凡な日々の営みのなかにある。
街の景色や空気の肌触りが、四季の移り変わりとともになだらかに変化していく中で、食べるもの、着るものも変わっていく。
無常の移り変わりが一年一年繰り返されるたびに、そこに暮らす人たちの間で静かに共感の世界が積み重ねられていく。
今日初めて出会ったような人であっても、去年、一昨年と積み重ねることができた共感の世界を心に刻んでいるおかげで、別々だった心を繋げ合わせることができる。


「美」という共通の言語を通して互いが結びつき合える心を「豊かな心」と言えるのではないだろうか。
そして、その美なるものは、実はとるに足らないと思っているような毎日の繰り返しの中に潜んでいる。
丁寧に暮らす中で美を感じる瞬間を「風情」と言うのではないだろうか。


時間に追いかけられ、自分一人を勝ち抜けさせようと必死になっているときに、「丁寧な暮らし」などというものに価値を見出すことはできないだろう。
結果ばかりを求めるがゆえに、その過程にある風情を犠牲にし、本当は一番欲しかった心の豊かさを見失う。
人と人との繋がり合いよりも、自分一人の安心のために、彼はひたすら急ぐ。
この世的なことを「取るに足らないつまらないもの」と思いこむがゆえに、本当は大切なことをどんどん通り過ぎさせて、自分の時間をひた走る。
大切なことを粗末にしているから生活をつまらなくさせているってことに気づかずに進んでいくのだが、実はどこにも近づけないまま、ただ速足で歩いているだけにすぎないのかもしれない。


私は私の人生を歩んでいきたい。
「あなたの人生はどんな物語ですか?」
「自分が今まで歩んできた道の中で、一番の感動ってなんでしたか?」
「この世界にいるすべての人と共有している一つの世界の中で、あなたはどんな発見ができましたか?」
「人間という共通体験の中で、どんな新しい体験を得られましたか?どんな可能性を発見できましたか?」
そんな問いかけに答えられる自分になることが、「自分の人生を生きる」ってことだと思う。


自分以外の人と共有できる自分独自の発見。
世界は分かち合うために与えられている。
同じ一つの青空を見上げながら、「ぼくにはこんな風に見えますよ」っていう美の視点を与えあって感動を共有する。
自分の人生を自分一人のものとしない、「分かち合える美」をたくさん拾い集めることは、与える愛であり、豊かさそのものだ。


本一つを紐解くにしても、独自の感動を伝えられるような読書にしたい。
そう思うようになったら、読書もまた自然に丁寧になった。
精読することが格好いいからとかじゃなく、「この本を読んだ」と言い切れるようじゃないと、もったいないと思うから。
「それはどんな物語ですか?」
「どんな感動がありましたか?」
「どんな発見がありましたか?」
「自分にとってそれはどんな体験でしたか?」
そんな問いかけに答えられるくらいになって初めて「この本を読んだ」と言い切れるんじゃないか。
ページをめくっただけで「読んだ」と言うのは、あまり正直じゃないし、感想が言えないなら、読んだとは言えない気がする。
人生だっておなじだ。
「自分の人生を生きた」と言い切れる生き方があるはずだ。


新しい職場で出会った芸術に造詣の深い人の話を前の記事で触れたけど、彼のように、自分の感動を言葉で相手に伝えられるまでにぼくも感動して分かち合えるようになりたい。
それが、本当に心を豊かにする幸せな読書体験であったり、観劇であったり、音楽との出会い、物語の出会い、芸術との出会いなのだと思う。
その読書は自分自身の心を耕すだけにとどまらず、心の中で独自に実らせた果実を他の人と分かち合えるまでに育てたということであって、作者の最も喜ぶ読者の姿でもあるだろう。
作品の中に込められている「共有できる一つの世界」から、他の人と結びつき、分かち合える実りを育てる。
とても丁寧で至福の読書になるんじゃないだろうか。


案外自分は正直に生きていなかったのだと気づく。


自分の気もちより、見栄えの良い理想を語り、そこに自分を合わせる。
そんな考え方と行動の組み合わせで生きてきたんじゃないだろうか。
理想という心の中にこしらえた見栄によってひそかに現実を見下して粗末に扱う。
「自分は急ぐから」と、自分を何か特別な存在に仕立てあげて、自分の殻の中に閉じこもることを正当化している。
他の人と分かち合える人生を本当は望んでいるくせに、そんな平凡な現実を「取るに足らないつまらないもの」と自分自身に思いこませ、大切なものを通り過ぎさせていく。
そんな仮説が浮かんでくる。


自分はこの人生を生きる中で、人間としてのこんな可能性や感動、喜びをこの人生を通して新たに発見したのだと、言えるようになりたい。
そうであってこそ、初めて「生きた」と言い切れるだろう。
別々の個性として生まれているのは、別々に生きて死んでいくことを良しとしているのではなく、それぞれに実らせた独自の美=果実を分かち合うことをもって、この世界を豊かにしていく喜びを良しとしているのだと思う。


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私は私の人生を歩んでいきたい。
そうであってこそこの世界において生きる喜びや人生の美しさを味わう「希望」を指し示すことができる。
他の誰かにならなければ幸せになれないなんてことは、決してないのだ。
そう思ってもらえるような独自の人生のきらめきを、丁寧に見つけ出し、大切にしたい。
自分の人生の尊さをきちんと理解することで、きっと他の人の人生も大切にできるし、互いに分かち合う豊かさも大切に大切にしていくことができるだろう。